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 彼の名は、石井圭一郎。卒業後、都内の大学へ進むと三年の時に学生名人になったと噂できいた。僕も東京の大学に入ったが、もう駒を持つ気にはなれなかった。  あいつの顔は何度も大会でみている。石井に違いないとは思ったが、直接声をかける度胸はなかった。もう十年も経つというのに、いまだに引け目を感じているのかもしれない。代わりに後をつけることにした。  温泉を出た石井を追った。  地下鉄の入り口から下りると、一号線の車両に乗り込んだ。僕は隣の車両に乗り、遠巻きに彼の姿を盗み見る。当時より髪は長く、ややふっくらとしているが、あれはやはり石井だ。ブラハルイザ駅で彼は下りた。地下鉄にしては短い階段を上がると地上に出た。目の前のラコツィー通りからは遠くにブダペスト東駅が見渡せる。  昨年の夏に日本を出て半年余り、西へ西へと旅をして僕はハンガリーにやってきた。ベオグラードから夜行列車で上がってきて、最初に下りたのがあの東駅だ。冬場でシーズンオフのため、綺麗めのホステルに安く泊まれたことから、なんとなく動くのが億劫になり、気がつけば二週間もこの街にいる。  石井は出口を出て百メートルほど歩くと、商店街の中にある集合住宅に入っていった。オートロックがかかっていて、すぐに扉が閉まったが、ほどなくして中から人が出てきたのですんなり入ることができた。エレベーターに乗り込む石井の姿が見えた。ゴンドラは上がっていってしまったが、フロアを示すランプを追うと、四階で下りたのがわかった。エレベーターが戻ってくるのを待ちきれず、階段を駆け上がると、すでに石井の姿は無かった。代わりに正面の住宅の扉に、日本語の小さな貼り紙を発見した。
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