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花魁は激しく咳き込み始めた。 枕元の盥(たらい)に顔を押し当てるが、飛沫は辺りへも飛び散り、鮮やかな赤色の花弁を畳に散らした。拭き取ろうにも体が鉛のように重い。喀血は血を失うという事以上に、体力を極端に奪うのだ。 体中の血を吐き尽くすかと思うほどの激しい発作がようやくおさまると、傍らに座って待っていた猫は静かに呼びかけた。 「おのぶ」 「…あぁ、わちきをその名で呼んでくれるのは、そういえば、あんただけになっちまったねぇ」 花魁は目を閉じたまま口元を和らげた。正直なところ、今はもう、瞼を開ける事すらけだるい。 「こうやって最期に会えたのがあんたで、わちきの本当の名前を呼んでくれて…ふふふ、わちきは果報者でありんす」 猫は花魁の口の周りについた血糊を拭い取るべく、ぺろぺろと舐めた。 「おのぶ、そろそろ、そなた自身の願いを教えてほしい」 「わちきの?」 花魁はそっと目を開けた。薄暗い部屋の中で、染みのついた天井が妙に遠くで揺らめいて見えた。風通しの悪い部屋の中はかび臭さに加えて、屎尿による悪臭やこれまでこの部屋で最期を迎えてきた遊女らの死臭で満ち溢れていたが、もう鼻が慣れてしまったのか、花魁は何も感じていなかった。 「わちきの願いはねぇ、あんたの話をこれからも聞くことでありんす」 猫は琥珀色の瞳を満月のように大きく見開き花魁の目をじっと見つめる。 元々色白な性質ではあったが、病を患ってからは全ての色を失った透きとおるような肌になった。少女の頃はふっくらとした桃の実のようだった頬も今ではげっそりと肉が削げ落ちている。 それでも彼女は何も変わっていない。こんな死を待つだけの部屋へ押し込められていようと猫の大好きな、心優しい女人のままである。 「次からは投げ込み寺に顔を出してくれなんし。たまにで構いせんし」 「心得た」 猫はこれまでと同様の短い返事を投げて寄越した。そして、その肉体の重みを一切感じさせない滑らかな足取りで、花魁に背を向けた。漆黒の闇の中へ溶けるようにその姿を消した猫を見送ると、花魁は唇の端を緩ませ、この世で最期となる吐息をそっと漏らしたのだった。
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