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眠っていた花魁(おいらん)の耳に、ちんとんしゃん、と三味線をかき鳴らす音がどこからともなく聞こえてきた。もう夜見世が始まる頃合いか、と一瞬思ったが、妙にまばらなその音色はどうやら練習中のものらしい。
恐らく今は昼下がりなのだろう。だが、部屋が薄暗いから時間の感覚が分からなくなっている。
遊郭の片隅にあるこの小部屋にも障子は一応ついているが、そのすぐ目の前には隣家の塀が迫っていて昼でもなかなか光が入ってこないのだ。
せめて障子をあけ放ったら風通しも良くなってこの部屋の居心地も少しは良くなるかもしれない、と思ったが、やめた。枕元には鈴が置いてあっていつでも鳴らせるようになっていたが、いちいち誰かを呼ぶほどの事でもないし、それに恐らくここへは誰も来たがらないだろう。
しかし、その障子が自然に開いた。
否、一匹の黒猫が障子の隙間を器用に鼻先で開けて入ってきたのだ。
毛足の短い、剽悍な佇まいの雄猫だった。鼻の頭から尻尾まで、まるで墨汁の中から這い上がってきたばかりのように真っ黒だ。しかし、その毛並みは角度によっては銀色にも輝いて見える。まるで南蛮渡来の天鵞絨(ビロード)を思わせる滑らかさだ。
唯一、目だけが琥珀色に光っており、鋭さの中にも思慮深げな雰囲気を感じさせる眼光を放っている。
猫は鼻が利く生き物だからか、部屋の中に漂っている臭いに一瞬顔をしかめた。ピンと伸びた髭を震わせるのと同時に、小さく鼻を鳴らした。
花魁は黒猫の姿を認めると、かすれた声ながら、歓声を上げた。
「あぁ、やっぱり来てくれんしたなぁ。そろそろかな、と思ってたんぇ」
格式高い吉原でも最高位の遊女である花魁ながら、猫を見つめるその笑顔はまるで無邪気な童女のようだ。
足音もたてずに近づいてきた猫に花魁は白く細い指をゆっくりと伸ばし、その喉元を優しく撫でた。
「あんたは変わりないかねぇ。ちゃんとおまんまは食べているんかぇ」
猫は心地良いのか、目を細めてされるがままに愛撫を受けている。
傍からは痩身に見える猫だが、触れてみると存外肉置きが豊かであることが分かる。花魁は安堵の吐息を漏らした。
「そぃで、最近のみんなは、どんな具合かぇ」
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