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「皆、息災に暮らしている」
猫が言った。その小柄な見かけによらず低く落ち着いた男の声。もしかしたら余人にはにゃあ、としか聞こえていないのかもしれないが、それでも花魁の耳には人語に聞こえるのだから何ら問題ない。
猫は花魁の傍らに前足を揃えて座った。
「そうだ、お亀の目方がとうとう18貫(約67.5Kg)を超えたぞ」
「おやまぁ。どんだけおまんまを食っているんでありんしょ、あの姐さんは」
ここを出る時は骨と皮だけの痩せっぽっちだったのに、と彼女が声を立てて笑うと、猫もこくんと頷いた。
「重くなりすぎて、厠の床を踏み抜いたのだ。皆で引き抜くのに難儀した」
鼻も曲がる強烈な悪臭を思い出したのか、猫は漆黒の毛皮をぶるっと震わせた。
「あははは。そりゃぁ傑作だぇ。お前さんは人間以上に鼻がいいから、さだめし辛かったろうねぇ」
「お亀の飯は今後半分に減らしておく」
「まぁまぁ。そこは、せめて八分くらいにしとくれなんし。腹八分とも言いんす」
花魁が苦笑すると、猫は素直に受け入れた。
「ならばそうしよう。あと、おきんの娘が嫁に行ったな」
「それは上の方?それとも真ん中?一番下…は確かまだ襁褓(むつき)が取れたばかりだったかねぇ」
「真ん中だ」
「なら、お芳ちゃんで。はあぁ…もうそんな年かぇ」
「16だからな。嫁ぎ先は隣町の長屋に住んでいる大工の倅だ。腕はいいし、生真面目で何よりお芳を可愛がってくれる」
「酒は飲まない男かぇ」
「うむ。お芳自身も父親のような酒飲みは嫌がっていたのだ。だから安心しろ、下戸を探してやった」
猫の言葉に花魁は手を打って喜んだ。
「ほんなら、使い走りにして悪いんでありんすが、こなたの簪(かんざし)をお祝いに届けてくんなまし」
花魁が枕元の文箱を指さすと、猫は「心得た」、と言い、鼻先で蓋を開けて中から赤い珊瑚をあしらった簪を咥えて取り出した。
花魁は「はぁ…」と肩で大きく息をついた。猫が来てくれた嬉しさのあまり、ここまで一気に話し続けてしまい、息が続かなくなっていたのだ。
しかし胸の苦しさとは裏腹に、花魁は心の底から嬉しそうな表情を浮かべていた。
「ほんでも、こうやってみんなが元気に暮らせるんも、ひとつ残らず、あんたのおかげでありんすぇ」
本当に、ありがとう。
言葉にしてもしきれない感謝の気持ちを、猫はゴロゴロと喉を鳴らして満足げに受け取り、花魁の頬に己の身体を摺り寄せた。
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