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 たどり着いたのは、町から少し離れたところにある一軒の古民家だった。座敷へ通され、ふかふかの座布団の上に座る。  着替えてくるわねと消えていった美里さんを見送って、私はきょときょとと室内を見まわした。初めての和室、初めての畳だ。  掛け軸の掛けられた立派な床の間には一輪挿し、違い棚には小ぶりの焼き物が飾られている。鼻をくすぐるのは、い草と、ほんのり香だろうか。開け放たれた障子の先には庭が広がっていて、緑が目に眩しいくらいだった。  縁側越しに地面に点々と並んでいる敷石を眺めていると、涼し気な紺のワンピースに着替えた美里さんが戻ってきた。 「お待ちどうさま。何のお構いもできませんで」  座敷机に上に蓋のついたコップのようなものを出され、まじまじと見つめる。 「粗茶ですが」 「ソチャ?」  首を傾げるも、美里さんは微笑むだけ。そうっとその蓋を開けてみると、透き通る若草色が目に入ってきた。なるほどお茶かと頷いて、持ち上げて口元へ運ぶ。ふわっといい香りがして、意識せずほうっと息が漏れた。 「すごく美味しいです」 「ふふ。お茶はいつでも美味しく淹れられるようにしておくといいわね」  なんだか、ここは空気が澄んでいるような感じがする。室内を見まわしていると、美里さんがくすっと笑った。 「こういう日本家屋は初めて?」 「はい」 「凛と張りつめた空気が素敵でしょう。ここはもともと、私のおばあさまが暮らしていたの。厳しい方だったけれど、毎日とても丁寧な暮らしをされていたのよ」  私、おばあさまのこと、とっても好きだった。  二人でしばらく静けさを味わってから、早速料理に取りかかろうという話になった。クリーム色のエプロンを貸してもらって、しっかり手を洗ってから台所へ向かう。一部土間からフローリングへ改装してあるその場所は、それほど広くはないが水回りを中心に綺麗に整理整頓がなされていた。  台所の隅っこ、土間の部分にひっそりある古い竈や臼などを眺めていると、美里さんが今日は肉じゃがにしましょうと言った。 「何品か教えてあげるわね。野菜炒めも簡単で健康的よ」  それからは、ただただ美里さんの手際の良さに見とれた。野菜を切ったりするのは少しだけ手伝ったが、ほとんど彼女が仕上げてしまった。 「これはお醤油とお砂糖で味付けするのよ、みりんも少し入れるとコクが増すかしら」 「あっ、ショーユトサトー! ですね」 「え? ええ、そうよ。お醤油と、お砂糖」  シロに教えてもらったことが出てきてテンションが上がる。炒めるのを任せてもらって、張り切って菜箸を握った。 「そうそう、忘れるところだったわ」  ぱちんと両手を合わせてからどこかへ消えていった美里さんは、やがて手に小さな横長の器を持って戻ってきた。中には、十センチほどのクローバーみたいな草がみっしり生えている。 「これは豆苗っていうの。とっても体にいいから、野菜炒めに入れて食べるといいわ」  でも、生では食べちゃだめよ。そう歌うように言い含めながら、美里さんは料理ばさみでぱちぱちその草をカットしてさっと水で洗い、フライパンの中に放り込んだ。 「これが出来たら、ごはんにしましょうね」 「はい!」  返事をすると同時にきゅるるとお腹が鳴る。うふふと笑われて顔が赤くなった。  そのあと一緒に食べた肉じゃがと野菜炒め、冷奴、みそ汁は、今まで食べたものの中で一番美味しかった。夢中になって白ご飯を頬張っていると、向かいの美里さんが不意に尋ねた。 「あなた、お名前は?」 「ん、んん……紅子です」 「紅子ちゃん、素敵なお名前ね。私は美里よ、名乗るのが遅くなってしまってごめんなさい」  ほら、ヨシトさんって、とにかく来るもの拒まず去るもの追わずじゃない。  頬に片手を添えて困ったようにそう言った彼女に、きょとんと首を傾げる。 「あの、ヨシトさんって誰ですか?」  今日一番驚いた顔をされてこちらまで驚く。何だろう。 「あの子のことよ、ほら、あなた一緒に暮らしてるんでしょう」  もしかして、シロのことだろうか。そういえば、この間うちに来た冲方もそんな名前を口にしていたような。 「とにかく、紅子ちゃんみたいな子が来てくれて嬉しいわ。またいつでも遊びにいらっしゃいな、あの子の好きなお料理を教えてあげる」  帰り際、美里さんは料理に使った豆苗の株を紙袋に入れてくれた。ついでにとばかりに渡されたちりめんの小さな匂い袋からは、部屋にほんのり漂っていた香のいい香りがした。  遅くなったから送らせるわねと乗せられた黒塗りの車は、なんというか、すごく、いかにもな感じの高級車だった。ただ、運転手の白髪交じりの男性がミラー越しに目が合うたびに微笑んでくれるので、恐怖は全く感じなかった。以前冲方が言っていた、シロが組長の女に手を出しているという話が頭をよぎった。  美里さんは、シロとどういう関係なんだろう。やっぱり恋人かな。  ちくりと痛んだ胸に首を傾げながら、私は満腹からくる心地良い眠気に苛まれつつ快適にアパートに帰った。  部屋の中は真っ暗で、がらんとしていて、誰の気配もなかった。
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