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よん
あの日から、シロとは顔を合わせていない。そもそも、シロが気まぐれにアパートに帰ってきた時くらいにしか会う方法がないのだ。二週間経っても三週間経っても、シロは帰ってこなかった。
アルバイト先のパン屋でパンの焼ける香ばしい匂いを吸い込みながら、私はぼんやりレジ前に立ち尽くしていた。何が悪かったかなあと回想することにも飽きて、最近は無心で浴室のぬめりというぬめりをそぎ取ることに集中している。
ふと時計を見上げると十四時半で、午後に焼き上がったパンを袋に詰める時間になっていた。袋の束とトングを持って店頭に出ていくと、ちょうど店の裏口からお疲れ様ですと元気な声が飛んできた。店長と軽くやり取りをしている声を遠くに聞きながら、クリームパンからせっせと袋詰めしていく。
「紅子ちゃん、お疲れ。僕代わるで」
「お疲れ様です。いえ、ここまでが私の仕事ですから」
「別にええのに、律儀やなあ。ほな、一緒にやろか~」
バイト仲間の瀬尾くんは、たしかまだ十七歳だ。本人に直接伝えたことはないが、垂れ目でほにゃほにゃした話し方をするところにいつも癒されている。彼はレジ横からセロテープ台を持ってきて、私が袋詰めしたパンをテープ止めし始めた。
「瀬尾くん」
「んー?」
「……いえ、何でも」
「んえ、何ぃ? そんなんめっちゃ気になるやん」
ぺたぺたとテープを貼りながら何なん何なんとのんびり追及されて、迷った末にぼんやりぼかして話すことにした。
「あの、私の知り合いが、余計な事言って同居人を怒らせちゃったらしくて」
「ふんふん」
「もともとその人の家なのに、もう三週間も帰ってきてなくて」
「えー、三週間も?」
「謝りたいけど、そもそも会えないし。探しにいって、もし迷惑がられたらって思うと」
語尾で急に声が震えて驚いた。喉がきゅうっと狭くなる感覚がして、メロンパンをトングで掴んだまま動揺して言葉を切る。隣で同じように袋詰めをしていた瀬尾くんは、ちらっとこちらを見てから、手は止めずなんてことないように言った。
「そんなん、実際会って謝ってみんと分からんやん? 意外とあっさり許してくれるかもしれへんし」
「……そういうものですかね」
「ん、そういうもんや。もし紅子ちゃんがちゃんと自分の言葉で謝ってもあかんかったら、そん時はまた相談して。僕、こう見えてめっちゃ頼りになるで」
に、と笑いかけられて、その顔が新鮮で、思わず何度か瞬きをする。
「まあ、頼りになるって言っても、別に僕自身が頼りになるわけじゃないねんけどな? 僕兄弟多いから、いろんな歳の人の意見が聞けるってだけで」
あっ別に家族に言いふらすってこととちゃうしね、と慌てて言う瀬尾くんが可愛らしく見えて、思わず口元が緩む。不思議とちょっとだけ気が楽になって、持ちっぱなしだったメロンパンをそっと袋に入れた。
「ありがとうございます、まずは直接謝ってみます。話はそれからですね」
返事が返ってこないのを不思議に思って隣を見ると、瀬尾くんは何故かまじまじとこちらを見ていた。
「あっ、ごめん。僕、紅子ちゃんが笑ってるとこ初めて見たかもしれへんわ。いやあ、びっくりしたなあ」
よく分からないが何やら感心しているらしい瀬尾くんは、てれてれしながらまた一つセロテープを切った。
「そういえば、駅前にできた新しいパン屋さん知ってる?」
「! 知ってます、開店前から気になってました」
「ほんまに! さすが紅子ちゃん。実は僕、こないだ早速行ってみてんけどな」
話題は最近駅前に開店した新しいパン屋へと移っていく。何を隠そう、瀬尾くんは私に負けず劣らずのパン好きである。シフトで顔を合わせるたびにパンにまつわる情報交換をするのが常だった。
噂の高級あん食パンを買ってみたはいいもののなかなか上手にトーストできないという話を聞きながら、私は今日のアルバイトが終わったら、ちゃんとシロを探しにいこうと心に決めた。怖がっていては何も始まらない。どんな未来が待っているにせよ、一歩踏み出さなければ。
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