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まだイエスと言っていないのに、男はわたしのテーブルの上にすっと焼き菓子をのせた。生クリームとミントの葉を添えられたりんごのタルトは飴色に輝いている。
はたしてわたしはこの男と寝たいのだろうか?
わたしは……わたしは、たぶん寝てもいい。いや、積極的に寝たい。自分の心に問いかけ、欲望のありかをくっきりと把握する。この会ったばかりの美しい男を征服する自分を思い浮かべる。
「このまま無駄にするのも心苦しい。どうかぼくとりんごのタルトを助けて」
「……いいわ」
微笑み返すと、男はありがとう、と言って自分のコーヒーカップに口をつけた。彼のテーブルには、携帯もタブレットも音楽プレイヤーも本も雑誌も手帳も筆記用具も上着もなにもない。
生活からこぼれだすヒントのようなものが何一つないのだ。指輪も時計もしておらず、バッグすら持っていない。
特徴という特徴のない衣服を着て、平日の午前中という何もない時間帯にカフェでコーヒーを飲んでいる。
何歳くらいなのだろうか? 第一印象はとても若く見えたが、その落ち着きぶりからすると、年上のようにも感じた。まるで何千年も生きているのにまったく年をとらず哀しみだけが降り積もり続けるヴァンパイアのよう。
都会にはいったい何者だかわからない美しい人々が生息している。
かつての私もそうだったし、周囲にもそういう人たちがたくさんいた。お金持ちか貧乏かは一見わからない。若く美しいというだけでちやほやされ生きていける人たち。
彼らはどこにいってしまったのだろうか。そしてこの男はいつからここにいるのだろうか。わたしはもうすっかり社会の部品として固定されてしまった。
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