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『転校』の理由なんて聞かなくてもわかる。母親の仕事の都合だ。明は昔から母親の都合に合わせて生活していた。毎日わたしの家にずかずかと上がり込んで一緒に晩御飯を食べるのも、そのあとわたしと遊ぶのも、全部明の母親が夜遅くまで仕事をしていたせいだ。
――あと、どれくらいかな……。
夜の八時を過ぎるとあいつはいつもそう言った。たとえテレビのお笑い芸人が体を張って観客の笑いを取ろうとしている時でも、自分が明日の宿題にうんうんうなっている時でも、ゲームのコントローラー片手に私と白熱した対戦を繰り広げている真っ最中でもお構いなしに。あいつは少しばかり寂しげな顔で、わたしにたずねてきた。
「もう少しだよ」
このマザコンめ。内心毒づきながらも、わたしはその度に律義に答えてやった。
テレビ画面ではパズルゲームの対戦でカッコよく三連鎖を決めている奴が、現実ではママの帰りを今か今かと待ちわびているのだ。ともすればコントローラーをにぎるわたしの手に力がこもる。
負けてたまるか。わたしはひそかに闘志を燃やした。だってあんまりじゃないか。こっちは全力で遊んでいるのに、あいつは母親が帰ってくるまでの時間つぶしだなんて。同じテレビの画面を見ているのに、全然違うことに気を取られているなんて。
わたしが華麗なる反撃に移ろうとした時だった。
ピンポーン、という間の抜けた音がそれをさえぎる。聞きなれた我が家のインターホン。
「明、帰るわよー」
愛しのママのご登場。あいつは「うん」と素直に、あっさりとうなずいてコントローラーのポーズボタンを押しやがった。画面が硬直。ついでに私も固まった。あいつはコントローラーを置いて部屋を出て行った。わたしを残して。
「いつもすみません」
「いいのよ。千鶴の遊び相手になってくれて、助かるわ」
お決まりのやりとりが玄関から聞こえる。わたしは動かなかった。テレビ画面に現れた
「PAUSE――スタートボタンを押して下さい」
という文字をただ、じっと見つめていた。
「ちづるー、明君が帰るわよ」
帰れ帰れ。明日もどうせ来るのだ。見送りなんてしてやるもんか。わたしは半ば意地になって
「スタートボタンを押して下さい」
の文字と、床に放置されたコントローラーに目をやった。中途半端に投げ出された勝負。今再開させてしまえば勝つのはわたしだな、とくだらないことが頭に浮かぶ。 負けて悔しがる相手がいない。
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