7 闇に光る目

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7 闇に光る目

 俊太郎は怒っていた。なぜこれほど腹が立つのか、本当は自分でわかっていた。  でも、絶対認めたくない。認めたら負けだ。負けはあの悪夢の記憶が許さない。  悪夢――そうだ。まさしく、あれは悪夢。今、こうして夜の街を平然と歩いている自分も、どこか夢の続きのように感じている。  いつか、この夢から覚めたら、自分はあの平和な頃のベッドの中にいて、階下へ下りると、キッチンで母親が朝食の支度をしていて、父親はもう一足先に家を出ていて……  だが、これは夢ではない。あの悪夢は現実だった。その悪夢の現場には、友部も居合わせていたのだから。  あの夜、友部一家が引っ越してしまってから一年後。  父の仕事の都合で、俊太郎の家も引っ越し、俊太郎は転校を余儀なくされた。  そのせいもあって、俊太郎はかなりの間、何かにつけては友部のことを思い出し、隠れてしばしば泣いていた。あの頃の俊太郎にとって、友部は兄とも親友とも頼む人間だったのだ。  しかし、友部は何も言わずに行ってしまった。たった一個の指輪を残して。どうしようもない薄情者。  それでも、時が経つうちに、友部のことを思い出す回数は減っていった。いない人間のことを思ってみても仕方ないし、忙しい毎日に追われてもいたから。  おそらく、そのうち友部もその他大勢と同じように、〝過去の人〟になっていただろう。いや、実際なりかけていた。 「――俊太?」  俊太郎が十七歳になったばかりの、ちょうど今頃の季節。  学校帰りに、横断歩道の前でそう声をかけられ、肩を叩かれた。  あの当時、俊太郎を〝俊太〟などと呼ぶ人間は一人もいなかったから、彼はひどく驚いて、その声の主を振り返った。 「やっぱり俊太だ! 俺だよ、俺! 〝友ちゃん〟こと友部(ともべ)正隆(まさたか)! 昔、おまえんちの近所に住んでた! ……何だー、覚えてないのかー? あんなに毎日遊んでたのにー」  しばらく、俊太郎は声が出なかった。  だって、人間がいちばん変わるときに、七年も会わずにいたから。  友部はすっかり背も伸びて、おまけに髪まで伸びていて、声変わりもしていた。父親譲りのその整った顔には、昔の面影がかすかに残ってはいたが、本人にそうと言われなければ、とてもわかる自信はない。  友部の顔を食い入るように見つめながら、俊太郎は呆然と呟いた。 「……友ちゃん?」 「そうだよ! やっとわかったのか!」  友部は嬉しそうに笑って、俊太郎の両肩に手を置いた。俊太郎も笑いかけたが、そのとき、ふとこれまでの七年間のことを思い出し、とたんに無性に悔しくなって、人ごみの中をつかつかと歩き出した。 「お、おい! どうしたんだよ!」  あわてて友部が俊太郎の後を追ってきた。今の二人の行動パターンは、ここから始まっている。 「七年だぞ」  まったく足を止めずに、俊太郎はぼそっと言った。 「突然、何にも言わずに引っ越して、また突然、忘れかけたときに現れて……何考えてるんだよ、あんた!」 「そ、それはすまなかったと思ってるよ。親の都合でさ、どうしてもあのとき、引っ越さなきゃならなかったんだ」  愛想笑いをしながら、友部は俊太郎の横を並んで歩く。 「それにしたって、あんとき、わざわざ指輪なんて渡しにきたんだから、そんとき、引っ越すぐらい言えただろ!」 「ほんとはそれも言うつもりだったんだけど、いざおまえの顔見たら、どうしても言い出せなくてさ。落ち着いてからおまえんちに電話したんだけど、おまえんちまで引っ越してて、連絡とりたくてもとれなかったんだ」 「……落ち着くのに一年もかかるのか」 「まーその、その一年はいろいろごたごたしててね」  俊太郎はふくれっ面をして、横目で友部を睨みつけた。  この七年間のわだかまりは、これくらいでは晴らせない。だが、友部は今度はこう訊ねてきた。 「それより俊太。おまえ、今、この街に住んでるのか?」  無視してやってもよかったが、俊太郎は怒鳴るようにしてつい答えてしまった。 「六年前からね!」 「へえー。俺は一週間くらい前からここに住んでるんだけど、おまえがいるって知ってたらもっと前に来たのになー。でも、会えただけいっかー。もしかしたら、一生会えずに終わってたかもしんないもんなー」  一生――  俊太郎はぴたりと立ち止まった。  思わず行きすぎて、友部は二、三歩後ろ向きのまま戻った。 「今度はどうした?」  また怒られるのかと、友部は不安げである。 「友ちゃんは――」 「うん?」 「……今まで、どうしてたの?」 「俺?」  友部は親指で自分の厚い胸を指し、にっこり笑った。そんな顔をすると、昔とまったく変わっていないように思われた。 「とにかく、ここでこうして話してるのも何だからさ、今から俺んち来ないか? すぐそこなんだ」 「でも……もう夕方だよ?」  まだ日こそ沈んでいなかったものの、気の早い店は対妖魔用の分厚いシャッターを下ろしはじめている。 「じゃ、泊まってけよ。親に電話して。何なら俺も電話に出てやるぞ」  〝親〟と言われて、初めて俊太郎はある疑問を抱いた。 「友ちゃん、一人で暮らしてるの?」 「ああ。親父もおふくろも二年前に死んじまったからな」  友部はあっさりそう言った。 「死んだって……」 「死んだんだよ。だから、俺はもう天涯孤独の身の上なの。各地を転々と流れ歩いてるんだ」  友部の表情には何の屈託もない。俊太郎は何も言えずに、そんな友部を見上げていた。 「そんな話は後でいくらでもしてやるよ。ほら、来いよ」  友部は俊太郎の手を強引につかんで引っ張った。 「う、うん……」  友部に誘われて、断れたためしはない。それに、もう会えないとあきらめきっていた友部にまた会えたのが、やはりすごく嬉しかった。 「あ、そうだ。途中で弁当買ってくか」 「うん」  俊太郎は素直にうなずいて、友部に手を引かれるまま、雑踏の中を歩いていった。    結局、友部のアパートには泊まらずに、夜半すぎに自宅に戻った。  母親に、あの友ちゃんに偶然会って、今夜友ちゃんのアパートに泊まっていくと電話したときには――母親はあっけないほど簡単に許してくれた――俊太郎も夜が明けてからうちに帰って、そのまま学校へ行くつもりだった。  だが、真夜中頃から、急に俊太郎は胸騒ぎを覚えはじめ、とうとう我慢しきれなくなって、うちに帰ることにした。  驚いたことに、妖魔ハンターをしているという友部は、自分が送ることを条件に、俊太郎の夜間の帰宅を了承した。帰る前にうちに電話しようかとも思ったが、たぶんもう寝てしまっているだろうと考え直してやめた。  車しか通らない深夜の街を、俊太郎は友部と二人きりで、ずいぶん時間をかけて歩いた。友部と一緒なら、一晩中でも安心して歩いていられそうだった。 「ふーん、ここか」  やっと到着した俊太郎の家――ごくごく平凡な二階建て――を友部は見上げた。  玄関灯だけで、やはり明かりはついていなかった。 「じゃあ、俺、帰るわな」  俊太郎に向き直って、友部は微笑んだ。 「明日、学校終わったら、携帯に電話くれ。すぐ迎えにいくから」 「え……いいよ。俺が友ちゃんち行くよ」  思わず、俊太郎は赤くなった。 「いや、俊太のおふくろさんに挨拶したいから。さすがに今夜は無理だろ」 「挨拶って……」 「普通にご無沙汰してましたって挨拶だよ。()()()の挨拶じゃない」 「あ……」  友部ににやにや笑われて、俊太郎は力まかせに彼の胸を何度も殴った。 「もー、バカバカバカ!」  友部は笑って受け流していたが、俊太郎が目を離した隙に、自分の胸を押さえて顔をしかめていた。 「じゃ、おやすみ」 「う、うん……おやすみ」  まだ夢見心地でぼーっとしながらも、俊太郎は惰性で玄関の鍵を回し、そのまま中へ入ろうとした。 「俊太」  険しい声で友部が呼び止めた。 「待て。入るな!」 「え?」  しかし、そのときにはもう俊太郎は玄関の中に入っていて、玄関灯の黄色い光に照らし出された廊下を見たとたん、身動きがとれなくなった。  血だまり。  そして、その中に倒れていたのは―― 「……(しゅん)……に……げろ……」  血塗れのパジャマ姿の父は、何か黒い影にのしかかられたまま、譫言(うわごと)のように俊太郎に告げた。 「かあ……さ……んが……」  だが、父は最後まで言い切ることはできなかった。父の上の黒いものが、まるで人形の首でももぐように、無造作に父の首を切り飛ばしてしまったからだ。父の首は壁に当たって、廊下を転がった。  これは悪い夢だと俊太郎は思った。こんなことが起こるはずがない。  黒いものは血の色によく似た赤い目を俊太郎に向け、首のない父の死体を打ち捨てて、じりっと俊太郎に近づいた。それでも、俊太郎は動けなかった。  黒いものが一気に跳んだ!  しかし、それより先に俊太郎は誰かに抱きすくめられ、壁に押しつけられた。玄関のドアが家が壊れるような勢いでふっとんでいくのが、目を閉じていてもわかった。 「まさか……」  俊太郎を両腕にしっかりと抱えこんだまま、友部は呟いた。 「()()()――」  黒いものは、ちらりと彼らを振り返った。が、それ以上は何もせず、またたくまに夜の街へと消えていった。 「――友ちゃん……」  何十年も経ったかと思われるような長い沈黙の後、俊太郎はやっとそれだけ言えた。 「見るな」  友部はさらにきつく俊太郎を抱きしめた。 「おまえは見るな。何も考えるな。――大丈夫。もう怖くない。いま警察を呼ぶ。おまえは俺のそばにいろ。わかったな?」  言われるまま、俊太郎は黙ってうなずいた。  それからとうとう最後まで、友部は俊太郎に父の死体は見せなかった。  友部は全然悪くない。それどころか、命の恩人だ。あの日、偶然友部と出会っていなかったら、今頃、俊太郎は両親と同じ道をたどっていただろう。  だが、やりきれなかった。両親が死にかけていた間、いったい自分は友部と何をしていたか。  「妖魔課」によると、母の死体は見つからなかったが、寝室内にわずかに血痕が残されていたという。おそらく、あの妖魔は先に母を跡形もなく食らってから、今度は父を襲ったのだ。  外部から侵入してきた形跡はなかったそうだが、しかし、住人にそうと知られず忍びこむことは妖魔には難しいことではないだろうというのが「妖魔課」の見解だった。  当時、俊太郎が住んでいた市の市長は、当然、妖魔ハンターを雇ってその妖魔を狩らせようとした。だが、あの妖魔が駆除されることも、それ以後、その妖魔によって市内の誰かが殺されることもなかった。  未成年でも妖魔ハンターになることは充分可能だ。そんなハンターもかなりいる。その一人であった友部は、俊太郎の父方の伯父夫婦とともに、昔以上に熱心に面倒を見てくれた。それをありがたいと思う一方、俊太郎はうとましくてならなかった。  友部さえいなかったら、俊太郎はあの悪夢を目の当たりにしなくて済んだ。よしんば、見たとしても、両親と一緒に死ねた。もしかしたら、逃れることもできたかもしれない。  八つ当たりだと自分でもわかっていた。しかし、友部に〝あの妖魔を捜し出して殺してほしい〟と頼んで、彼に〝つらいだろうけど、それはもう忘れて、俺と一緒に暮らさないか〟と言われたとき、とうとう俊太郎は切れた。 「あんたにはもう頼まない……!」  炎のような激しさで、俊太郎は叫んだ。 「忘れろだと? 忘れられるわけがない! あんたがやってくれないんなら、俺が自分で捜し出して殺してやる! あんたなんか大っ嫌いだ!」 「俊太……」  このとき、友部は俊太郎が初めて見るほど、沈痛な表情をしていた。だが、俊太郎を止めようとはしなかった。自分には止められないことを、友部自身がいちばんよくわかっていたのかもしれない。  かくして、俊太郎は自分から友部と決別し、妖魔ハンターとなるべく高校を中退した。今の技術は、偶然出会った妖魔ハンターに師事して身につけた。つらかったことも数限りなくあったが、あの血だまりと、父の生首と、そしてあの妖魔の影とを思い出すと、即座にふっとんだ。  友部のことは意識的に記憶の外へ追いやった。もはや友部にはあの暗い思い出が常につきまとっていたから。  しかし、それから三年後――つまり、今から一年前に、またしても信じられない偶然で、今度は妖魔ハンター同士として友部と再会してしまった。その腐れ縁は今日まで続いている。  あの前もあの後も、友部だけは変わらない。怒鳴られようが殴られようが、相も変わらず、俊太俊太とつきまとってくる。  友部にずいぶんひどいことをしていると自分でも思う。だが、もうあれ以前のように友部と対することはできない。あの悪夢がいつも心のどこかで淀んでいる。おまえだけに幸福は許さないと闇で赤い目を光らせている。  だから、俊太郎は妖魔を狩る。いつかあの妖魔と巡りあい、その首を狩れるその日まで。あの悪夢を断ち切れるその日まで。それまで、友部とのことは保留だ。  ふと、俊太郎は立ち止まり、小学校のほうを振り返った。  引っ張られるような、奇妙な感覚。  無意識に、自分の胸元に手をやった。そこには、友部にもらったあの指輪がペンダントとして下がっている。何を思うでもなく、俊太郎は微笑んだ。  ――呼んでいる。  俊太郎は走り出した。
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