8 エセ妖魔

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8 エセ妖魔

 小学校時代の京子にとって、自分の父親が先生であるということは、決して喜ばしいことではなかった。  テストで良い点をとれば、先生に教えてもらったんだろうと言われ、悪い点をとればとったで、先生の子供のくせにと言われる。おまけに、父は休日であっても学校の仕事で忙しくて、京子とあまり遊んでくれなかった。 「お父さんは、ほんとの子供より、よその子のほうが好きなの!?」  前々から約束していた家族旅行が、父の研修旅行のために中止になったと知らされたあの日、小学生の京子はとうとう父にそう言ってしまった。仕事でとはいえ、その行き先は他の小学校なのだ。京子がそうして嫉妬したとしても、無理からぬことだっただろう。  顔を真っ赤にして泣きわめく娘を、父はしばらく眼鏡ごしに見つめていたが、おまえに見せたいものがあるからと言って、車で隣の市まで連れていった。  車はある建物の門の前で止まり、京子はそこで降りるように父に言われた。見たところ、そこは幼稚園か保育園のようだった。京子より年下か同じくらいの子供たちが、遊具で遊んでいる。  自分に見せたいものというのはこの子供たちのことなのだろうかと、怪訝に思って父を見上げると、彼は京子の手をとって言った。 「ここはね、京子。親のいない子供のための家なんだよ」  京子ははっと父を見上げた。父の表情は眼鏡に隠れてよくわからなかったが、その声は淡々としていた。 「お父さんは不器用だから、おまえにずいぶん寂しい思いをさせてると思う。お父さんだって、自分の子供がいちばん可愛い。でもね、京子。京子はお父さんの子だっていうことだけで、もう〝特別〟なんだ。京子は今、こうしてお父さんと手をつなげられるけど、あの子たちはもうどんなに願っても、お父さんやお母さんと手をつなぐことはできないんだよ」  園内では保育士らしき若い男の人が、幼い子供たちの手を引きながら笑っていた。子供たちも楽しそうに、きゃっきゃっとはしゃぎ回っている。  それまで、京子は両親を失うことなど考えたこともなかった。父も母も、いつまでも自分のそばにありつづけるのだと思っていた。  でも、もしもこの温かくて大きな手がなくなってしまうとしたら……なくなってしまったら。  猛烈な恐怖に襲われて、京子は夢中で父の手にかじりついた。父は驚いたようだったが、そんな京子を落ち着かせるように優しく頭を撫でた。 「大丈夫。おまえは独りではないよ」  父もまた孤児であったと京子が知ったのは、それから数年後のことだった。  ***  屋上から友部めがけて妖魔は跳んだ。きゃっと叫んで、京子は輪の中にしゃがみこんだ。巨大で鋭利な妖魔の爪を友部は跳びすさって避けた。砂煙が舞い上がった。 「ふん。しょせん、元人間のエセ妖魔だな」  妖魔を見て友部が冷笑する。 「本物の妖魔なら、砂粒ひとつ動かさずに着地する。てめえにゃ優雅さのかけらもねえよ」  ()()友部だ。京子を恐怖にすくませた。だが、京子はそのことよりも、ある異常のほうに気をとられていた。  あれほど砂煙が上がったのに、京子にはまったく空気の動きは感じられなかったのだ。 「貴様ぁ……」  既知の動物のいずれにも喩えられない、しいて言えばライオンを一回りくらい大きくしたようなその妖魔は、まるで人間のように歯ぎしりした。  ――妖魔がしゃべっている!  立ち上がった京子は、思わず両手で口を覆った。しかも、その声には聞き覚えがあった。  友部は泰然として妖魔の前にたたずんでいたが、ふいに京子のほうを指さした。 「あの娘に見覚えはないか?」 「何?」  京子は震え上がった。妖魔は友部を睨んだまま、身じろぎひとつしなかったが、唐突にその脇腹に何個も目が出現し、一斉にじろりと京子を見た。   「何だ、この娘は?」  妖魔に動揺が走った。 「見覚えはないか?」  あくまで、友部の声は冷静だ。 「知らん――知らんはずだ。しかし……」 「じゃあ、何でおまえはこの小学校の、特にあの教室にこだわる? 昼間、俺たちがあそこに入りこんだから、おまえは怒って、すぐに俺たちを襲ってきたんだろう? 妖魔が好むはずの若いのは食わず、中年ばかりを食らってきたのはなぜだ? ――おまえは誰だ?」 「……オ……レ……?」  グルルと妖魔は唸った。自分の正体について混乱しているらしい。  京子もまた混乱していた。この声が誰のものだったか、完全に思い出したのだ。しかし、そんなはずはなかった。そんな馬鹿なことが……そんなことが……! 「あの娘の名前を教えてやろうか?」  背筋が薄ら寒くなるほど優しい声だった。 「並木京子というんだよ」  電気ショックを受けたかのように妖魔は震えた。今度は友部から視線をはずし、ゆっくりと、なぜか怯えたように京子を見た。  そのとき、俊太郎は小学校に戻ってきた。  妖魔がいることは一目見てわかった。だが、友部が片手を上げて攻撃するなと合図したので、すんでのところで中止した。駆けつけて急に声をかけるなどという愚かなことはしない。一瞬の油断が命とりとなる。 「……きょ……こ……」  喉に詰まったような声で、妖魔は確かにそう呼んだ。怖かった。妖魔を見るのはこれが初めてだった。友部が作った輪の中で、京子はひたすら震えていた。 「きょう……こ。京子」  妖魔の呟きが止まった。その目が爛々と輝きだしたかと思うと、妖魔は突然、狂ったように咆哮し、京子めがけて飛びかかってきた。  京子は悲鳴を上げた。しかし、同時に妖魔も空中で悲鳴を上げ、地上にどさりと投げ出された。 「馬鹿め」  冷たく友部は言い捨てた。 「簡略だが、そいつは魔法円だ。妖魔は中に入れない」 「その娘をよこせ」  信じられない身軽さで、妖魔は体勢を立て直し、再び友部をねめつけた。 「そういうわけにゃいかないね。俺たちの仕事はあくまでも、おまえを狩ることだからな」  涼しい顔で友部は人差指を振った。その後方では、すでに俊太郎が構えている。  ただ、今のままでは、京子を巻きこんでしまう恐れがある。何かの拍子に、京子が自分から輪を飛び出してしまったら万事休すだ。何とかして、京子から妖魔を引き離さなければならない。  だから、わざと友部は妖魔の注意を自分に向けさせている。友部は特に武器らしいものは携帯していないが、それだけに融通もきく。 「ヘイ、カモーン」  ウィンクして、友部は欧米人風に妖魔を手招きした。そのあまりにも馬鹿にした態度にすっかり腹を立てた妖魔は、体勢を低くして、友部との間をゆっくり詰めていく。友部は少しずつ少しずつ後ろへと下がっていき、そうと悟らせないように、妖魔をグラウンドの真ん中へと導いていった。  妖魔が跳ねた。  常人であったら一撃で胴体を真っ二つにされるところを、友部は軽くかわした。さらに妖魔は目に見えぬ速さで攻撃をくわえたが、友部はそれらをことごとく紙一重で避けていく。その様は、まるで黒いライオンとじゃれあっている調教師のようだった。  一人と一頭はまたたくまにグラウンドを横切り、友部は鉄棒のところまで追いつめられた。妖魔はかまわず爪を振り下ろし、それをまた友部はよけた。鉄棒は泥つきの長ネギのようにスパッと切れた。 「手間が省けた」  にっこり友部は微笑むと、切られた鉄棒のまだくっついている端を持って簡単に引っこ抜き、竹槍よろしく妖魔に突きつけた。 「今度はこっちから行くぜ」  また微笑んだのもつかのま、友部は驚異的な速さで妖魔を鉄棒でつつきだした。  反撃する間もなく妖魔は退いた。が、わずかに逃げ遅れて、鉄棒の鋭い切っ先が体の一部をかすった。それが二度、三度と続き、ついにはまともにヒットするようになった。  妖魔は左右に跳んだりしてそれから逃れようとするのだが、どこへ行っても正確に友部は突いてくる。しかも、その表情はまったく変わらず、息も乱れていない。  一気に逃れようとして、妖魔は大きく後ろへ跳ねた。だが、それは逆効果となった。がら空きになった腹を友部が一突きにしたのだ。黒い血が噴き出て砂地を濡らしたが、妖魔は身をねじらせて何とかはずした。 「ふん」  つまらなそうに、友部は鉄棒についた血を振り落とした。これでもなお、彼は本気ではない。  妖魔に初めて恐怖が生じた。このままではやられる。なぶり殺しだ。しかし、妖魔の面子にかけて、せめてもう一人のハンターは道連れに……!  弱ってきたと見せかけ、妖魔は突然、俊太郎に向かって駆けた。友部は妖魔に鉄棒を投げてよこした。それは妖魔の背から腹を貫いた。それでも、まったく速度をゆるめず、妖魔は駆けた。  俊太郎のすぐ近くには、あの娘が立っていた。京子京子京子……知っていた。確かに知っていた。だが、どうしても思い出せなかった。  一方、妖魔が自分に矛先を変えたと知っても、俊太郎は少しもあわてなかった。そろそろ来る頃だなと見当をつけていたのだ。  俊太郎は確実に妖魔をしとめられた。それはもう確信以上だった。あと一瞬。あと一瞬で妖魔の急所に鉄串を打ちこめる。  油断はしていなかった。しかし、京子のことをすっかり忘れていた。 「やめてーッ!」  京子は輪から飛び出して、俊太郎の前に走り出た。 「お父さんッ! お父さんなんでしょうッ!?」 「バカッ!」  俊太郎は京子を抱いて、横っ飛びに跳んだ。しかし、それは間に合わず、妖魔の爪は京子の左腕を引っかけた。パーカーはティッシュのように破られ、腕はゼリーのように脆く切られた。 「畜生!」  友部が舌打ちし、妖魔に勝る速さで俊太郎のもとへと駆けつける。俊太郎は京子を足元に寝かせると、すぐに妖魔に身がまえた。が、妖魔は狼狽でもしているように動かない。 「お父さんなんでしょう……?」  ややもしたら、そのままちぎれてしまいそうな腕を抱えて、京子は喘いだ。 「だって……声がそうだもの……お父さん……お父さん……もうやめて……お父さんに親を殺された子も……」 「……〝お父さん〟?」  眼前の妖魔を見つめたまま、愕然として俊太郎は呟いた。 「かまうな!」  手早く京子の止血をしながら、友部が叫んだ。 「妖魔は妖魔だ! 今のうちに殺せ! どうせ元には戻らない!」 「そんなこと言ったって……!」  俊太郎はおろおろして叫び返した。 「……京子を返せ」  全身から黒い血を滴らせながら、低く妖魔は言った。 「俺の娘だ……俺の……」  やにわに妖魔は俊太郎に躍りかかった。投げるに投げられず、俊太郎は地上を転がって逃れた。 「まったくもう……!」  呆れ果てたように友部は言い、俊太郎のそばへと走った。 「いいか! あれはもう人間じゃないんだ! 人食ってるんだ! 躊躇するな! ぶち殺せ!」 「でも! あれはあの子の父親なんだろう!」  叫びあううちに、また妖魔が襲いかかってきて、二人は別々に逃げた。 「だから何だ! 今は妖魔だ! 人間じゃない!」  それは俊太郎もわかってはいた。だが、いざ向きあうと、どうしても鉄串を投げられなくなってしまうのだ。 「しょうがねえなあ」  小さく友部は愚痴ると、すばやく俊太郎の背後に回って、右手で彼の両目を覆った。何をするんだ、と叫ぶ間もなく俊太郎はあっけなく意識を失い、そのまま友部の腕の中に倒れこんだ。  チャンスとばかりに妖魔は友部に跳びかかる。しかし、友部が真一文字に指を動かすと、そのまま簡単に吹き飛ばされた。 「おまえごときエセ妖魔に使いたくなかったが、こうなっちゃ仕方がない」  俊太郎をそっと地上に寝かせてから、いかにも嫌そうに友部は整った顔を歪ませた。 「こいつ、親子の情にもろに弱いからな。でも、俺は違うぜ。金のためなら屁でもねえ。可愛い後輩の代わりに、俺が相手になってやるよ」 「ハンターめ……」  忌々しげに妖魔が呻く。  それを嘲笑うかのように、友部はチッチッチッと舌を鳴らして差指を左右に振った。 「違うね。〝妖魔ハンター〟はあくまで副業。俺の本業は」  ここで友部は妖しく笑った。 「〝妖魔使い〟だ」  声にならない声を妖魔は上げた。それを満足げに眺めながら、友部は自分の左手から、例の金の指輪を抜きとった。 「来たれ、〝ワンダ〟!」  朗々と友部は唱えた。 「今、ここにあれ!」  言い様、友部は空中に指輪を投げた。一瞬、太陽のように輝いたかと思うと、その指輪のわずかな空間から、何か白く光る巨大なものが抜け出てきた。 「ここに。御主人様(マスター)。御用は何?」  幼い少女の声で、その現れたものは言った。 「そいつを殺せ」  役目を終えて空から落ちてきた指輪を、友部は右手で受け止めて、再び左の薬指にはめた。 「今回は食ってもいい。俺が許す」 「ほんとに? 御主人様(マスター)!」  実に嬉しそうに声は言った。  妖魔は微動だにできなかった。格が違う。違いすぎる。 「そいつは生粋の本物の妖魔だ」  酷薄に友部は笑った。 「どうだ? おまえとはずいぶん違うだろう? 本物の妖魔は、強いものほど美しいものなのさ」  そんな主人の言葉に応えるように、夜空にのたうつ白銀の竜は、傷ついた黒い妖魔を歓喜の目で見下ろした……  ***  誰かが泣いている。  ぼんやりと「彼」は思った。  あれは誰だっただろう。いつか自分の手を抱いて泣いていた小さな娘…… (泣くな。俺がそばにいるから)  そう思って、娘に伸ばそうとした自分の手には、黒い剛毛と獣の爪が生えていた。  驚いて、思わず上げた声さえも、すでに人間のものではなかった。 (人間? 俺が?)  自分の考えに「彼」は自分で驚いた。「彼」は妖魔だ。人間などであるはずがない。人間などであるはずが……  ――お父さん……お父さん……お父さん……  腕から赤い血を流しながら、あの娘が「彼」を呼ぶ。  ――おまえは誰だ?  あの美しい妖魔使いが、冷笑を浮かべて「彼」に問う。  そして、「彼」は意識が失せるその寸前、己に向かって問いかけた。 (俺ハ……誰ダ?)  ――お父さん。  遠い記憶の彼方で、娘が誰かと一緒に笑っている。
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