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「私は、西川さんを馬鹿みたいなんて思ったことありませんよ」
心のままに答えると、聡子がゆっくりと睦美に顔を向けた。
「嘘つき。って言いたいところだけど、狭山さんはそんな嘘をつくような人じゃないわね」
そう言って聡子が笑うと、目尻と下まぶたに小さなシワが刻まれた。年齢に応じたものだろうが、味のある、どこか優しげなシワだった。きっと彼女の人生、そして彼女の恋が刻んできたものなのだろう。不思議とそんな風に思えた。
彼女の恋は彼女自身を変えた。そして今もなお、思い出をその貌に刻み続けている。睦美は自分の貌に何を刻んでいくのだろう。何を刻むことができるのだろう。考えると、息苦しいほどの不安が胸に迫る。
睦美には恋愛で自分を変えることなんてできない。変えるくらいなら、一人のほうがマシだ。恋愛で得るものなんてなにもない。最後に恋したのがいつだったかさえ思いだせない。
それを、出会いがないとか、マシな男がいないとか、ずっと何かのせいにしてきた。そんな自分と比べれば、聡子は馬鹿なんかじゃなく、自分に素直で勇気のある人だ。それがほんの少し羨ましく思える。
聡子のくしゃみが狭い喫煙ルームに響いた。
少し懐かしい、豪快なくしゃみだった。だが、その手にはちゃんと白いハンカチが握られている。
睦美は白い息を吐いた。これからのことはわからない。だけど、恋をすることも、変わることもそう悪いことではないのかもしれない。
お局・聡子の恋は、睦美の心を春のそよ風のように吹き抜けていった。
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