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――ゴホゴホゴホ、ゲホゲホゲホ。
睦美はメールの手を止めて、非難めいた視線を聡子に送った。またもや冷たいものが飛んできたのだ。
そこに見知らぬ男性が近づいてきた。隣には、営業二課の課長もいる。男の背は高く、なかなか精悍な顔つきをしていた。
「みなさん、お仕事中失礼します!」
彼がおもむろに声を張り上げると、とっさにその場にいた社員たちは仕事の手を止め、彼を注視した。聡子の咳も止まった。
「本日より営業二課に配属になった橋本悠一です。以前は丸の内支店にいました。早く戦力になれるよう精いっぱいがんばりますので、よろしくご指導ください」
落ち着きのある良い声だった。しかも、支店から本社への異動となれば、睦美の会社では出世コースだ。
睦美は橋本の頭のてっぺんから靴の先まで素早く眺めた。年は三十歳くらい。結婚指輪は見当たらない。スーツの上からでも引き締まった身体つきが分かるところをみると、恐らくなんらかのスポーツをやっているのだろう。
別に値踏みするつもりはないのだが、今の仕事に携わるまでは営業だったせいで、相手を観察するくせがついているのだった。
挨拶が終わり拍手に包まれると、女子社員のざわついた黄色い声があちこちから漏れ聞こえてきた。
社内にいる男性社員は年齢層が高めだし、既婚者も多い。出会いのない職場だと悲観する者さえいる。そんな中、イケメンで将来有望な独身男性がきたとなれば、女性陣が寄ってたかるのも無理のないことだった。別に驚くことでもない。
そう――驚くことはないはずなのだが、睦美はふと目にした光景に心底驚いていた。
あの聡子がハンカチで口元を押さえたまま、瞬きもせず橋本に熱い視線を送っていたのだ。それだけではない。こほこほとずいぶんと可愛らしい咳をしている。先ほどまでの豪快さはどこへいったのか。
橋本を見て、若手女子社員が期待に胸を膨らませて騒ぐのは、わかる。だけど、聡子の場合は話が別だ。
年齢云々を言っているのではない。仮に、聡子と同期の女性が彼と付き合ったとしても、驚きはしないだろう。それが聡子だから、睦美は驚いているのだ。
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