第1章

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「本日は印鑑をお持ちですか?」 「ええ」  椹木さんの問いに返事をすると、山本さんはハンドバッグの中をさぐり始めた。それほど容量がないバッグの中身はぎゅうぎゅうで、判子一つ取り出すのにも一苦労の様子だ。もう少し大きな鞄にすればいいのに。そんなことを思った瞬間、「あっ」と彼女の声が聞こえて、バッグの中身が床に散らばってしまった。 「大丈夫ですか?」  拾うのを手伝った方がいいのか、それとも無闇に私物に触らないでいた方がいいのかわからず、俺は一応声を掛けて近付いたものの、結局その場でオロオロした。 「大丈夫です、ごめんなさい」  彼女は席から立ってしゃがみ込むと、バッグの中身を拾い始めた。その中でふと、目にとまる物があった。それはなんの変哲もないスマホだ。女性らしくピンク色のシリコンカバーが掛かっている。しかし、彼女のスマホはすでにテーブルの上に載っているはずだ。よく見ると、テーブルの上にあった彼女のスマホにも同じカバーが掛けられていた。今時携帯端末の二台持ちなんて珍しい話ではないのだろうが、カバーが同じ物ではどっちがどっちかわからなくなってしまいそうだ。やがて山本さんは散らばった物を元通りにし、ついでに目当ての判子も見つけ出した。  サインと捺印を済ませ、正式に契約が成立した。調査をするにあたって必要となる、対象者の情報を得る為の聞き取りを始める前、椹木さんは、「一ついいですか?」と彼女に訊ねた。 「参考までにお訊きしたいのですが、もしもご主人が不貞行為に及んでいなかった場合、山本さんはどうされるおつもりですか?」 「え?」 「この質問が失礼だと感じたら、答える必要はありませんので。ただ、念の為に申し上げておきますと、その可能性もゼロではありませんから」  ……そうだ。万が一相手がシロだった場合や、調査期間内に行動に出ないことも有りうる。だからと言って調査費用は返還されないだろうし。椹木さんの事務所は他社に比べれば破格と言っていいくらい安い金額に設定されているが、それでも一日の調査だけで万単位のお金が掛かってしまう。山本さんは数秒黙り込んだあと、口を開いた。 「事実がどうであれ、結果は変わらないんでしょうね」  これまで怒り一辺倒だった山本さんの表情に、違う色が滲んだ気がした。 「結局あの人は、私と別れたがっているんだから」  寂しそうなその声がとても印象に残った。
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