第3章

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「気付かなかったのか? マル対が立ち止まっただろ。そのあとは足音しか聞いてねえが、Uターンして表の通りに戻ったな」  言うなり、椹木さんは俺の手を引いて元来た道を戻る。力が入らず、足がガクガクしていた。……さっきまでとは違った意味でうまく歩けない。けれど隣の男の顔は真剣だ。仕事の顔つき。それで理解した。今の一連の行為は仕事の一環だったのだと。予想外にUターンしてきた対象者から顔を隠すために誤魔化したのだろう。もしも俺が街中でおもむろにイチャついて、ましてやあんなキスをしているカップルに遭遇したら、なるべく視線を背ける。……そういうことなのだ。こっちはこんなに動揺しているのに、平然としている隣の男がやたらと憎かった。  急いで、しかしあくまで自然に通りに出ると、すぐに対象者を発見できた。二人は、今度は一本先の路地へと足を踏み入れる。 「さっきのは単に道を間違えたみたいだな」  最終的に二人が足を止めたのは、とある雑居ビルの前だった。一階には酒屋が入っている。ビルの中、しかもこんな目立たない場所で商売が成り立つのかと思ったが、立地を考えればまさに入れ喰い状態なのかもしれない。  二人が雑居ビルの階段を上がっていったのを確認してから、椹木さんはビル内に入った。耳をすませて何をしているのかと思っていると、どうやら階段を踏む足音で何階に行ったのかを調べているようだった。足音はすぐに途切れた。二階で止まったのだろう。次に椹木さんは入口まで戻ると、「ああ……なるほどな」と呟いた。 「何がなるほどなんですか?」 「ほら、これ」  椹木さんが指で叩いて示したのは、入口の壁に貼り付けてあるテナントの表示だった。ビル内に入っている会社名が、階ごとに記されている。椹木さんが叩いたのは二階。そこはテナント募集中の表示になっていた。そして、その管理会社は対象者が勤める不動産会社の名前だった。……ということは。 「お客さんってことですか?」 「ま、そういうこったな」  一気に気の抜けた気分だった。
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