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「どうですか、お仕事の方は?」
マスターがグラスを磨きつつ、山本に声を掛けた。
「そうですね……今は真夏のはずなのに冬真っ只中という感じですよ。賃料の値下げを行っても契約がままならなくなっています」
山本はこの店の常連のようだった。仕事の話や時事に触れ、会話を弾ませている。山本が二杯目を注文した時、マスターはにこやかに注文を受けたあと、柔らかな口調で続けた。
「私としては大歓迎ですし、是非とも羽を伸ばしていっていただきたいと思っていますが、ご家庭は大丈夫ですか? 週末ごとにお帰りが遅いと奥様が心配されるのでは?」
特に表情の変化は見られないが、きっと椹木さんは「マスター、ナイス!」と内心でガッツポーズをしているに違いなかった。
「いや……僕がいない方が気が楽でしょう。安い僕の収入に文句も言わず、きっちり家のことをやってくれてるんだから、週末くらい僕のことで負担をかけたくない。向こうも予定があるだろうし」
「できた旦那様だ。私も見習わなければいけませんね」
マスターが控えめな笑みを浮かべる。
「ですが女性の心理というものは複雑です。我々男どもには読みきれないところがあります。こちらの予測とは裏腹に寂しがってらっしゃるのかもしれませんよ」
「どうでしょうね……」
山本が曖昧に笑う。
「妻とは年がすごく離れてるんですよ。職場にアルバイトに来ていた彼女に僕が一目惚れをして、年甲斐もなく……」
自分があんな積極的にアプローチできる人間だったと彼女に出会うまでは知らなかった。そういって苦笑する山本は過去を懐かしんでいるような気がした。
「とにかく夢中で、必死でした。奇跡的に彼女が交際に応じてくれて、プロポーズにOKしてくれた時は天にものぼる気持ちでした」
マスターはただ笑顔で頷く。
「でもね、結婚してからは後悔してばかりなんです。彼女はまだ若いし、もっとやりたいことがあったかもしれない。こんな自分より他の相手と一緒になった方が幸せなのかもしれないと……」
その言葉には男の真摯さと妻への愛情がこもっているような響きがあった。
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