第5章

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第5章

 いつもの駅でおりて、アーケードをくぐる。昨日は一日中雨が降っていたから、やたらと蒸し暑い。着ているシャツが湿気を含んでいつもより重い気がする。  事務所のビルの前で街路樹から落ちた葉を制服姿の女性が掃いていた。一階の携帯ショップの顔なじみの女性スタッフだ。 「おはようございます」  すぐに俺に気付いた女性は、いつものように挨拶をしてくる。客商売だからなのか、それともそういう性格なのか、ろくに挨拶を返したことがない俺に対しても、この人は欠かさず挨拶をしてくれる。 「……お……おはようござい、ます」  立ち止まってぎこちなくそう答えると彼女は目を丸くした。……それはそうだ。俺がここへ通うようになった三ヶ月ちょっとの間で初めての出来事だから。まさか返ってくるとは思っていなかったのだろう。 「あの……ありがとう、ございます」 「え?」  続けてお礼を伝えると、彼女は更に驚いたような顔をした。 「……それ」  俺は彼女が手にしているほうきとちりとりを指差す。彼女はぽかんと俺を見つめた。  いつもビルの前を掃いてくれていることにお礼を告げたつもりだったが、よくよく考えてみれば彼女は仕事の一環でそれをこなしているだけであって、自分がそれを言うのは見当違いのことなのかもしれない。そのことに気付いて、恥ずかしくて顔が火照った。慌てて立ち去ろうとした時、彼女が口を開いた。 「いいえ、どういたしまして。……今日は蒸しますね」  笑顔を向けてくれた彼女に、俺はテンパる。 「あ、はい……蒸します」  ただ言われたことを繰り返すだけのなんとも間抜けな返答に、彼女は声に出して笑った。  笑われたけど、ちゃんと挨拶を返せた。かろうじて会話になった。それだけのことに妙な高揚感を覚える。これはきっと達成感だ。
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