第6章

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「……ぅ、っく!」  ちょうど森下の脇腹辺りに抱きつく格好になり、押し倒すように倒れ込んだ。その拍子に森下が手にしていたナイフが離れ、椹木さんの足元に滑る。アイカさんの短い悲鳴が響いた。 「なんだ、お前っ、離せ!」  身体を捻った森下の肘が、頬骨の上に当たる。 「ぃ……っ」  呻きながらも俺は森下から手を離さなかった。俺にはこの人に伝えなければいけないことがある。俺にしかできないこと。 「そんなことしたってなんにもならない!」  もがく森下に必死にしがみついて声を張った。 「俺には、あなたの気持ちがすごくよくわかる!」  すると、森下の抵抗が少し弱まった。 「ただ逢いたいだけなのに、笑った顔が大好きなだけなのに。なんで俺の気持ちわかってくれないんだろう、俺が一番大事に想ってるのにって。悔しくて、悲しくて……」  抱きついていた男の抵抗が、完全に止まる。 「でも、それじゃだめなんだ。自分の気持ちを一方的にぶつけるだけじゃ……好きだなんて言う資格もない」  この人はきっと、ものすごく俺に似ている。視野が狭くて独りよがりで、盲目で傷つきやすい。だけど本当に、アイカさんのことが好きなのだ。だけど好きだからこそ、誰よりも相手のことを考えないといけない。  俺の好きな人は、やり方を間違えてしまった俺の初恋を否定しないでくれた。俺があの時、どれほど救われたか。  だから、俺もこの人を否定したくない。 「まだやり直せる。あなたがアイカさんを大事だと思うなら、これ以上傷つけないで……傷つかないでほしい」  椹木さんと出会って、いろんなことを知った。……ありえない体験もした。椹木さんと出会ったから、今の俺がある。オヤジで、スケベで、適当で、でも情に厚くて、優しくて、寂しがりで。無精髭や煙草の匂い。これが、このまま失う恋でも、俺にとってはかけがえのないものだと思った。
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