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自分の仕事にやりがいと自信を持って取り組んでいると分かる彼が、沙月には少し眩しい存在に見えた。
今の自分は何をやっているんだろう。やる気も魅力もなく、ただ日常を過ごしているだけだ。
「――羨ましいです。自分のことでもいっぱいなのに他人に気を配れるって。気持ちに余裕がなければ絶対に出来ないことですよ。自分のこともきちんと考えられなくて、ただ流れにだけに身を任せている俺とは全然違う」
沙月は、スリープ画面で真黒になったスマートフォンの画面を見つめて深いため息をついた。
少し伸びてきた前髪が落ち、余計に野暮ったい印象を与える。
「あなたは……。今の生活に満足なさっていないようですね?あまり理詰めで物事を考えるのは良くない」
低く優しい声色は初対面であるにもかかわらず、雁字搦めになった沙月の心をゆっくりと解いていく。
「それに……よく見るとあなたは可愛い顔をしてる。そんなに自分を隠すようなアイテムは必要ないんじゃないですか?なぜ自分を偽ろうとするんです?」
他人からの視界を遮るための前髪、別段視力が悪いわけでもなく使用している太いフレームの黒縁眼鏡、そして自信のなさを強調する猫背や皺だらけのスーツ。
幼い頃から家族に自分の存在を主張することなく、兄だけが注目されて生きてきた成れの果ての姿だ。
才色兼備の兄と比べれば劣っていることは分かっている。この年になっても女性との付き合いもなく経験もない。
しかし、そういう欲求がないわけではないのだ。
彼女を作ろうと思うと必ずトラブルに見舞われ、行きずりで体の関係に発展したとしても体はまったく反応してくれない。
その時には必ずと言っていいほど“別のもの”を求めている。しかし、それが何なのかというのは分からない。
ただ、どうしようもなく――目の前の女性よりも“別のもの”が欲しくて堪らないのだ。
「――こんな事を聞くのは失礼かと思いますが、彼女とか……いないんですか?」
まるで沙月の考えていることを見透かしているかのような質問に息を呑む。
どう答えようかと悩んでいる間に一条はバツが悪そうに謝罪した。
「あ……すみません」
「いえ、大丈夫です。彼女はいません。作る予定もないし……。初対面の一条さんにこんな話をしていいのかって思うんですが、俺……会社を辞めようか悩んでいるんですよ」
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