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兄と父が奥の座敷で話しているのを偶然聞いてしまったのだ。そう――兄の泉が十五歳の誕生日を迎えたその日に書状は届けられた。
その時は、芝山家を含む四つの贄家が候補としてあげられたのだ。その名誉の指名に浮足立った父は、それからさらに兄への尽力を惜しまなかった。
そういう兄もまた、父の期待を裏切ることなく嫌な顔一つせずに毎日を過ごしている。魔物の花嫁になれば生涯苦労なく金銭に困る事もない。それと同時に絶対的な地位と力が約束される。
この世界に存在する誰もを傅かせる力――魔力を手に入れる事が出来るのだ。普通に生活している人間には絶対に手に入らない力が自分のものになると思えば、多少難儀なことでも乗り越えられるのだろう。
欲しいものは必ず手に入れる――。兄の性格はそう形成されていったのだ。
沙月はそんな兄を見て育ってきたが、恨めしく思うことは一度もなかった。むしろ自由を奪われ、自分の思い通りの人生を歩むことの出来ない兄に寂しさを感じていた。
最初の頃は自分の存在を認めてくれない兄にも両親にも腹が立ったが、自分は何も出来ないと悟った時、その抵抗はなくなった。
芝山家にとって不要な存在――。そう認識した時から日々の生活が色のないものへと変わっていった。
薄暗くなり始めた境内ではカラスが鳴き、鬱蒼と茂る木々がわずかにそよぐ風にざわざわと揺られている。
傷だらけのランドセルから取り出した宿題ノートに、授業でやった復習事項を鉛筆で書きこみながら、ただ家に帰るタイミングを見計らっていた。
鉛筆を指先でクルクルと回しながら問題を解いていたその時、ふっと今までにない冷たい風が頬をするりと撫でた。
その冷たさにゾクッと背筋を震わせながら恐る恐る振り返り、仄暗い階段の上を見上げる。
日の暮れかけたこの時間、誰もこの神社には寄り付かない。人の気配すら感じないその場所に目を凝らすと、自分が座る石段の数段上に長身の青年が立っていた。
少し長めの黒い前髪を揺らしながら、自分を見下ろす姿はまるで大きな黒いカラスに睨まれているような錯覚さえ起こす。
黒いスーツを着ていたせいでもあるが、何より彼の感情の読み取れない冷たい瞳がそう思わせたのだ。
「――こんな所で何をしている?」
低く鋭い声が自分に向けられて発せられたことに気付き、沙月は小さく震えながら全身を強張らせた。
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