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誰もいないと思っていたところから突如として現れた彼に恐怖心は隠せない。
微かに唇を震わせながら、何度も唾を呑み込んでやっと声を出すことが出来た。
「宿題を……してた」
「こんな場所でか?」
石段に散らばった細かな石を踏む靴音がゆっくりと下りてくる。
家族に蔑まれているとはいえ、見も知らない男に声を掛けられて誘拐でもされたとなれば、父や兄に迷惑をかけることになる。
もしも、自分が誘拐犯に殺されたとしても『芝山家末代までの恥』と言われるのは目に見えている。
沙月は開いていたノートを慌てて閉じるとランドセルの中に押し込んだ。
慌てていたせいで手にしていた鉛筆が落ち、石段を転がった。
それを青年の長い指先がそっと拾い上げ、困惑する沙月に差し出した。
「早く帰らないと親が心配するぞ?」
誘拐犯の常套句であるその言葉がなぜか今の沙月には酷く優しく聞こえ、警戒をしつつもぎゅっと拳を握りしめて唇を噛んだ。
彼は、スーツが汚れることなど全く気にもしない様子で、沙月の隣にゆっくりとした動作で腰掛けると、視線をそらしたままの沙月を覗きこんだ。
青年が身じろぐとふわりと香る甘い匂いに、沙月はその表情をほんの少しだけ緩めた。
「帰っても居場所はないんだ。僕、誰からも必要とされてないから……」
そう言って差し出された鉛筆を受け取る。小さく「ありがとう」と言うことだけは忘れなかった。
「どうしてだ?」
「僕は、次男だから。長男のお兄ちゃんはすごく大切にされてる。家の『ならわし』なんだって。男だけど……花嫁になるために、父さんも母さんもお兄ちゃんを大事にしてる。だから僕がいなくても誰も気にしないんだ」
諦めたように力なく微笑んだ沙月はランドセルの蓋を閉めながら言った。
カチャカチャとマグネットのついたつまみを合わせようとするが、なかなか上手くいかない。
「――お前の名は?」
初対面の人物にいきなり名乗る事は憚れたが、沙月は戸惑いながらも自分の名を告げた。
「芝山沙月……」
近所の住人ならば芝山の姓を知らない者はいないだろう。それどころか、泉が『花嫁候補』になってからは方々に知れ渡っている。
それゆえに、父からは「家名に恥じない行動を心掛けろ」ときつく言われている。
青年はすっと腕を伸ばすと、白く長い指先で沙月のぷっくりとした頬を撫でた。
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