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先程から、変わることなく一定のリズムを刻むコピー機の前で、沙月はぼんやりと立ちつくしていた。
目の前の壁に貼られた“ミスコピーに注意”の張り紙をどれほどの時間眺めていただろう。
午前九時の始業チャイムが鳴ると同時に作業を始め、昼食を挟み、そして今は午後四時を回っている。
三流商社の営業部で、よくこんなにも大量のコピーを必要とするものだと感心を通り越し、むしろ呆れるばかりだ。
約二十人が在籍する営業部にも庶務係の女性はいるが、他の用事が忙しく手が回らないからという理由で、このような雑用事は沙月に回ってくる。
そうは言うが、彼女はつい先ほどイケメンと噂される企画部の先輩とお茶を片手に休憩室へと歩いて行った。
(忙しいのに、お茶する時間はあるんだ……)
心の中で愚痴りながらも、頼まれると断れない性格でいつも損ばかりしている。
幼い頃から出来のいい兄と比較――いや、むしろ相手にされないほど放置され、自分なりに生きてきた。
大学を出て、就職難の最中、藁をも掴む思いで内定をもらったこの会社も、いわゆるブラック企業なのではないかと実しやかに噂されている。
事実、同期入社した数人は三ヶ月ともたずに退社しているし、何とか残っている者もいじめや嫌がらせなどの陰湿な行為に頭を悩ませている。
ただ、その中でも顔やスタイルが良かったり、少々出来が悪くても父親が有名企業の上層部だったりする者は、会社の対応も一八〇度変わってくる。
かくゆう、沙月の家も古くから続く名家として有名ではあるが、就職するに当たり、現当主である兄の泉に「お前に芝山家を名乗る権利はない」と口汚く罵られ、その威厳を振りかざす事さえ許されなかった。
もしも、芝山の名を出していれば沙月の待遇は良くなっていたに違いない。
五年前に母が、その後を追うように厳格だった父が亡くなり、貴族の流れをくむ芝山家の跡を継いだのは長男である泉だった。
しかし、次男であるにも関わらず、家族として認めて貰えなかった沙月にはどうでもいいことだった。
煩わしい家を出て、独り暮らしをして地味に生きていた方がよっぽど気が楽だ。
古くからの“仕来たり”ばかりを気にする泉の生き方にはついていけない。それ以前に、彼は沙月の存在を疎ましく思っており、家を出てからというもの彼とは一度も会っていない。
お互い連絡を取ろうという気もなく、それぞれに生活しているのだ。
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