1/11
1960人が本棚に入れています
本棚に追加
/133ページ

一ヶ月後――。沙月はW商事に退職届けを提出した。 直属の上司である営業部長の反応は予想していたものよりもドライで、出したことを後悔することはなかった。 引継ぐような案件もなく、デスクの片付けと事務的な手続きが完了するまでにそう時間はかからず、丁度月末だったこともあり、その月の末日付で退職が確定した。 その間に何度か一条とのやり取りはあった。そのたびに親身になって応えてくれる彼の優しさに、最初に少しだけ不信感を抱いていた事を申し訳なく感じるほどだった。 上司にも同僚にも感謝することなど何もなく、形式だけの感情のない挨拶を済ませ会社を出ると、すぐに一条の名刺に書かれていた携帯番号へ電話をかけた。 数回のコールのあと、聞き取りやすいハッキリした声が鼓膜を震わせ、ほっと胸を撫で下ろした。 「芝山です。たった今、退社しました」 『気持ちは楽になりましたか?――これから会いませんか?』 一条の声は沙月にとって安息剤のような効果を発揮する。 待ち合わせの場所と時間を決め電話を切ると、なぜだか浮足立っている自分に気づく。 (デートじゃあるまいし……) 彼に会うことがそういう感覚に酷似していることに気付き、自嘲しながら待ち合わせの場所へと向かった。 現在地からならばゆっくり歩いても十五分はかからない。 いつも以上に歩幅を広げ、時折ネクタイを直しながら歩く自分が滑稽に思えた。 再就職の説明を受けに行くというのに、気分がまるで違っていたからだ。 今までの会社への通勤は、毎日がまるで死刑台に送られる罪人のような気分だった。 それがどうだろう。今は煩わしいと感じない。 待ち合わせ場所の高級シティホテルのロビーに到着すると、周りを見回しながらゆったりとしたソファに腰掛ける。 天井から眩い光を散らすシャンデリアや、マナーの行き届いたスタッフ、そして鏡のように磨かれた大理石の床が沙月を自然と緊張させた。 営業マンとして接待も何度か強要されたが、やたらとコスト削減を掲げる会社は安い料亭ばかりを選んでいたため、こんな高級シティホテルには足を踏み入れたことがなかったからだ。 落ち着きなく腕時計を見ながらガラス張りのエントランスに視線を向けると、黒いスーツに身を包んだ一条が現れ、沙月を見つけると同時ににこやかに笑みを浮かべながら近づいてきた。 「お待たせしましたか?」
/133ページ

最初のコメントを投稿しよう!