1958人が本棚に入れています
本棚に追加
/133ページ
4
一条の手から離れた沙月は、彼の右腕と言われているやり手の石本と共にセミナーの設営や打ち合わせに追われる日々が続いた。
時に厳しく叱咤する石本だったが、決して感情的になることはなかった。
常に沙月の行動をチェックし、ここは良かった、今度はこう動けばいい、というように的確なアドバイスをもらうことで確実に自信へと繋げていった。
仕事では厳しい面を持つ石本だったが、休憩時間や食事の時は、数多くの引き出しを持つ彼らしく、話題には事欠かず楽しく、笑いが絶えなかった。
一条といる時とはまた違った感触に、別の切り口から見る仕事にやりがいを感じ始めたのは確かだ。
そして、彼と離れてもう一つ気が付いたことがあった。
あれほど悩まされていた原因不明の体調不良から解放されたのだ。彼といることに苦痛を感じていたわけではない。しかし、知らずのうちにストレスを感じていたのかもしれなかった。
それまでの頭痛や倦怠感がまるで嘘のように治まったのだ。
自分の知らないところで病に侵されているのでは?と危惧していたことから解放されたことで気持ちに余裕が出来たことは違いない。それなのに、何かが足りない。
それまで心を満たしていたものが、ぽっかりと無くなってしまったような虚無感に襲われることが度々ある。
無性に誰かに縋りたくて、力強い腕に抱きしめてもらいたくて……。
一条から離れたことが原因だとは思わない。きっと自身の“甘え”がそう感じさせているのだと沙月は思った。
こういう時は、大人になり切れない自分を情けなく感じる。
周囲の人間は皆、自分なりのポリシーを持って生きている。輝かしくもあり羨ましくも見えるのは、自分がまだその域に辿り着いていないせいだと劣等感を感じずにはいられない。
その日もまた、石本の実力をまざまざと見せつけられた。クライアントとの打ち合わせが難航し、予定時間をかなりオーバーして会社を出たのは午後十時を回った頃だった。
さすがに疲れを感じた沙月は、石本の食事の誘いを丁重に断り、タクシーに乗り込むとホテルへと向かった。
研修期間中の宿泊先と指定されていたホテルだったが、沙月にはそれ以外に戻る場所はなかった。
それまで彼が住んでいたアパートは、知らないうちに一条に解約されていた。
最初のコメントを投稿しよう!