83人が本棚に入れています
本棚に追加
身体に回っていた手が俺の顎を掴み、グイと上へ向ける。暗い瞳をした成富と視線がぶつかったと思った瞬間、唇を塞がれた。手にはコーヒー。目の前にはパソコン。データ入力はまだ途中。ここでパソコンにコーヒーを零すわけにはいかない。今までの頑張りが壊れる。何もかも水の泡となる。
動けない状態。身体を激しくよじることも、頭を振ることもできない。
俺はカップを持つ腕に力を入れ、そこに集中した。
成富の男のものとも思えない唇が何度も俺の唇を啄んでくる。いつも感じていた視線。毎日、毎日。その意味を触れ合わせた唇で俺に伝えてくる。
そんなはずじゃない。なんて言葉は出るはずもなかった。否定できない。俺は知っていた。成富の好意も行動も。知っていたのに、見過ごし成富を利用していた?
止まない啄み。息苦しくなってくる。唇を薄く開くと、成富の舌がそっと入ってきた。でも、強引なものとは違い、それはおずおずと優しい動きをする。歯茎を舐められた途端、身体の芯に電気が走った。経験したことのない感触。
身体を拘束する手のひらがそろそろと身体を撫でる。
舌はもっと口内を探り、内側を撫で擦りつけ、俺の唾液を奪った。ちゅるちゅると吸い上げられ、舌同士を擦りつけるたびドンドン甘い唾液が生まれてくる。とろけるような感覚と同時に襲われる目眩。
俺は「はぁ」と吐息を漏らしていた。快感に、圭太の顔が、幸の顔が、両親の笑顔。幸せな家庭。平穏な日々が遠く押し流されていく。
唇を触れ合わせたままの甘噛みにビクンと肌が震える。成富の唇がそっと離れた。目を開けば、潤んだ目で俺を見つめている。
「塩見さん、俺に、あんたを抱かせてよ」
成富の目に曇りはなかった。その目から視線を外すことができない。
俺はコーヒーを机に置いた。
口を開こうとした時、成富が人差し指で唇を塞いだ。
「今は、なにも言わなくていいから」
そしてまた始まる口づけ。
俺は成富の唇を受け、瞼を落とした。
――今までの頑張りが、幸せが壊れる――
崩れていく。
これで……終わりだ。
完
最初のコメントを投稿しよう!