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でも、もう二度と、あんなふうに愚かで欲深い恋情に捉われたりはしない。
一陣の風が僕の髪を激しく乱し、とっさに瞼を閉じる。
風が止んでゆっくりと目を開けた僕の前に、桜の木の下でこちらを見つめる乾様がいた。
僕らの視線の間を縫うように、風に飛ばされた花びらがハラハラと舞い落ちていく。
追憶の残像かといぶかしんだのもつかの間、目の前の彼の姿が、紛れもない現実だと気づく。
(乾様は中央施設棟側にいらっしゃるはずなのに!?)
敢えて前回と違うルートで講堂へ向かったにもかかわらず、こうして彼に出会ってしまうなんて。
抗えない運命の力を見せつけられたようで、僕は恐怖に身が竦む。
慌てて視線を逸らし、前を向いて歩き出す。
思い出の中と寸分違わぬ美貌と清廉さに、胸が激しく高鳴る。その姿を目にした途端、僕の魂は圧倒的な力で乾様へと引き寄せられてしまう。
振り返りたい。
お姿を見たい。
湧き上がるその衝動を押さえ付けながら、僕は重い足をひきずるようにして前へと進む。
(「静流」)
心を蕩かすような低く甘い彼の囁きが、幸せすぎる記憶の中で甦る。
(……蒼様……)
もう二度と、あの方をそう呼べる日は来ない。
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