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[41. 高校2年・初夏【静流】]
(「この学園のルールを知っているだろう?……"ギブ&テイク"だ」)
******
「坂上前部長から君の手助けをするようにと言われている」
誰もいない部室で奈良諜報部長と向き合っていると、去年の秋、この同じ部屋で坂上さんが告げたセリフを思い出す。
(「ギブ&テイクだ」)
「手助けは……必要ありません」
呼吸が浅くなっていくのがわかる。
「本気で言っているのか?」
「……」
室内から空気が漏れ出しているかのように、僕の肺が必死に酸素を求め始める。
「自分の置かれている状況がわからないほど、君が愚かな人間だとは思えないが? それとも、乾会長への気持ちはその程度という事か?」
「……僕は……!」
わかっている。
自分がどんな状況に置かれているか。
そして、僕の存在が乾様をどれほど難しい立場に追い込んでいるか、嫌というほどわかっている。
「僕はこれ以上、乾様を裏切るような事はしたくないんです」
吐き出すようにそう言うと、ほんの少し呼吸が楽になる。
「私の手助けがなければ、君は数か月もしないうちに乾様のそばにいられなくなるぞ。……侍従隊が君を失脚させるために動いている。侍従隊を抑え込むためには、諜報部と手を結ぶしかない」
感情の欠片も感じさせない奈良部長の声が冷たく室内に響き、空調の効いた部屋にいるのに、僕は鳥肌が立つような悪寒を感じる。
「君には既に2ヶ月間の猶予を与えた。このまま黙って侍従隊に潰されるのを待つか、それとも我が諜報部に付くか、君の返事をもらおう」
「……見返りは、何ですか?」
顔を上げると、奈良部長の瞳が肉食獣のように僕を捉える。
「君には侍従部内の情報を探るためのスパイになってもらう」
黙って見つめ返す僕に、目の前の男性が薄ら寒い笑顔を見せる。
「情報を引き出すのに、侍従部副部長という肩書は有効だからな。……それから、坂上さんと同じように時々私の"相手"をしてもらおう」
気管が閉じたかのように、突然、息ができなくなる。
「……嫌だ……」
後ずさる僕を追い詰めるように奈良さんが近づいてくる。
「オーバーブルームの訓練を受けた君に、拒否権があるとは思っていまい?」
「僕は、オーバーブルームじゃない」
「じゃあ、君には何の価値がある? 侍従隊に偽の罪を着せられて除籍処分になる前に、どんな手立てを打てる? 何の証拠も持たずに乾様に助けてくれと泣きついて、その庇護下でただ震えているのか?」
奈良部長の言葉を耳にした瞬間、頭の芯がスッと冷えていくような感覚に襲われる。
仮に僕が侍従隊の暴挙を乾様へ訴えたとして、確かにその時は首謀者を探し出し罰する事ができるかもしれない。けれど、僕を弱き被食者と見なした敵対者たちは、繰り返し僕を陥れる機会を狙ってくるだろう。
「わかるだろう? 君は己の身を守るために自ら武器を取らねばならない。そして、私はそれを君に提供しようと言ってるんだ」
乾様が僕をそばに置こうとされるたび、僕の安全を守ろうとして下さるたびに、それが親衛隊の伝統や慣例と相反する結果を招いてしまっていた。これ以上、乾様を隊員から批判されるようなお立場に追い込むわけにはいかない。
僕は自分自身の力で敵対者たちと戦わなければならないのだ。あるいは、せめて乾様に進言できるだけの確かな証拠を掴まなければ――。
「……わかりました。僕は何をすればいいですか?」
「まずは2つの任務を果たしてもらおう」
眼前に立つ男性の暗い瞳に、僕の内なる闇が呼応するのがわかる。
「一つ目は、"場所"の確保だ。任務を秘密裏に進めるためには隔離された部屋を手に入れる必要がある。……そして二つ目は、"警護隊"だ……」
僕は、戻れない仄暗い道へと足を踏み入れようとしていた。
******
「ずいぶん顔色が悪いが、大丈夫か?」
隣に立つ水樹さんを見上げると、表情からいつもの険が取れている。
諜報部室を後にした僕は、さっきから続く息苦しさに大きく息を吐いた。
「……すみません。少し具合が悪くて……」
「諜報部長に何か言われたのか?」
「いえ、簡単な連絡事項の伝達だけでした」
3月まで諜報部にいた僕は、侍従部に属した今も乾様と諜報部との連絡窓口を務めていた。
「持病でもあるのか?」
「いえ。今までこんなこと無かったんですが、最近、体調が悪くて」
「そうか」
平坦な声音の中に、不調を気遣う優しさが見え隠れする。
僕の身辺警護を命じられている水樹さんは、僕が周りからどんな扱いを受けているか、どんな目で見られているのかを一番近くで見聞きしている。だから、僕の体調不良をストレスから来るものだと判断したに違いない。
そして、侍従部内で孤立する僕を不憫に思い、僕を守ろうという気持ちは増すだろう。
突然、水樹さんが僕の肩を抱き、目的地である東寮とは逆方向へと誘導する。
「水樹さん……?」
「保健医に診てもらった方がいい。乾会長には報告しておくから、心配するな」
「ありがとうございます……」
大柄な水樹さんに肩を抱かれると、体ごと収まってしまう感じになる。ほんのわずか体重を預けると、彼の体に緊張が走ったのを感じ取った。
「ごめんなさい。歩きづらいですよね」
姿勢を戻そうとする僕の肩を、水樹さんが強く抱き寄せる。
「いや、大丈夫だ。その方が楽なら、俺に寄り掛かるといい」
触れ合った体の部分が熱を持ち始めるのがわかる。
(ごめんなさい……)
(「君も気づいていると思うが、侍従部の最大の弱点は、侍従隊と警護隊の内部確執だ。私は侍従部内に爆弾を仕掛けたいんだよ。そして、そのスイッチを手にする事ができれば、私は侍従部に対して圧倒的優位に立つことが可能になる」)
奈良部長の声が脳裏に甦る。
(「君にはオーバーブルームとして天性の才がある。君が去年受けた研修の指導報告書を読んだが、君の判定はトリプルAだった。……トリプルAが出る確率は1万人に一人と言われている。報告書は乾様の命令で破棄されてしまったが、本来なら君は今も諜報部にいてオーバーブルームとしての任務を負うべき人間なんだよ」)
保健室に着くと、水樹さんに促されて僕はベッドに身を横たえた。
保健医は席を外しているらしく、室内に人影は無い。
「保健医が戻るまで廊下で待機しているから、何かあったら声を掛けてくれ」
「はい。ありがとうございます」
視線が合った瞬間、水樹さんが戸惑ったように目を逸らす。
(「君には、相手が何を求めているのか感じ取れる能力がある」)
(僕にそんな力なんて無い……)
入り口に背を向け目を閉じても、背中に水樹さんの強い視線を感じる。
(「君は他人の気持ちに同調する事で、相手の求める理想の恋人像を演じる事ができる。……乾会長は君に関するデータを消し去ってしまわれたが、君はこれからその能力を私のために発揮するんだ)
静まり返った保健室にいても、頭の中では諜報部長の声が響き続けている。
(「まずは警護隊を味方に付けろ。彼らにとっての君は、主君である乾様の庇護下にいる大切な存在だ。君は彼らにとって守るべき姫君のようなものなんだよ。だから、乾様の寵愛を奪おうとする侍従隊員から、警護隊員たちは必死で君を守ってくれるだろう。そして、君のそばにいる事で彼らは次第に君へ心酔していく。……そうなれば、君は侍従部長をさえも凌ぐ権力を持つことができる」)
そして、僕を背後で操る奈良部長は、諜報部と侍従部という2つの組織の実権を握ることになるのだ。
(乾様……)
ただ、乾様のそばにいたかった。
乾様のお力になれるだけでいいと、そう思っていたはずだった。
なのに。
(乾様を誰にも奪われたくない)
時々、侍従部保管の女史に関するデータを覗き見てしまいたい衝動に駆られることがある。侍従隊員の誰が乾様に抱かれたことがあるのか、全てを知りたい誘惑に捉われる。見てしまえば、より強い嫉妬の念に苛まれるとわかっているのに。
乾様を恋い慕う侍従隊員にとって、僕という存在は目障りでしかないだろう。そして僕にとっても、それは同じだった。
まるで僕は、ゆらゆらと揺れるロープの上を命綱無しで歩いている愚者のようだ。
空を仰げば、光輝くような天の御国が見える。愛と優しさに満ち、限りない幸せに満たされる至福の場所。
けれど、乾様の愛という拠り所を失ってしまった瞬間、僕は深い深い孤独と悲しみの谷底へ真っ逆さまに転落するしかないのだ。
「泣いているのか……?」
嗚咽を押し殺す僕の体を、水樹さんが背後からそっと抱きしめてくる。
背中に感じるその熱を、別の世界の出来事のように褪めた思いで見つめるもう一人の自分がいる。
人の心は儚い。
どんなに深く愛しても、どんなに強く心に決めても、この世界に永遠なんてありはしないのだから。
全てが移り変わって行くように、人の心も移ろいゆく。
乾様と離れなければならない日は必ず訪れる。
あまりにも生きる世界が違う僕たちは、大人になれば別々の道を歩むしかないのだ。
この社会は身分や地位という階級で明確に分かたれていて、定められた階層以外で生きることは許されない。
やがて乾様は、選び抜かれた部下や側近達に囲まれて乾グループの頂点に立たれる。そしてその地位に相応しい女性と結婚して、優秀な子孫を残さなければならないのだ。
身分の低い同性と情を交わしていたという事実は、華々しい乾様の経歴にとって汚点以外のなにものでもない。
(それでも、おそばにいたい……)
今だけは、同じ学園にいられるこの時間だけは、乾様のおそばにいたい。
甘く僕の名前を呼んで。
逞しい腕で強く抱きしめて。
優しい眼差しで僕を包み込んで。
どうか、今だけは、この幻のような幸せの中で……。
――そうして僕は、翼を焼かれたイカロスのように暗黒の世界へと堕ちていくのかもしれない……。
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