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[42. 高校2年・秋【蒼】]
侍従部長から渡された調査報告書を机の上に置く。
封筒の上には"極秘"の赤い文字。
遠くの山際に落日が赤く染まる。
少しずつ闇が忍び寄るこの時間を、かつて人々は逢魔が時と呼んだ。人の世と、別の世が交差する、混沌とした時刻。
執務室の窓から見える眺めは、いつもと変わらぬ中庭とその向こうにそびえる西寮の灯り。
けれど、この場所にも光と闇は交錯している。
輝くような光に満ちた記憶も、いつかは闇に堕ちるのかもしれない。
引き出しからレターオープナーを取り出し、ゆっくりと報告書の封を切る。
俺は、本当は、この中身を見たくないのかもしれない……。
最初は、何気ない違和感だった。
いつもそばにいるはずの静流の姿が、時折、見当たらなくなる。親衛隊の仕事は済んだはずなのに、部屋に戻っても静流がいない。
もちろん四六時中、静流と一緒にいるわけにはいかないのだから、当然と言えば当然のことだ。俺には手を付けなければならない仕事が数えきれない程あり、静流にも侍従部副部長としての責務がある。
冷静にそう判断しながらも、心の片隅で小さく囁く声があった。
(静流がおまえの知らない時間を過ごしていてもいいのか? 親衛隊の任務なんて辞めさせて、おまえの腕の中だけで生きる人形のようにしてしまえばいい……)
偏狭な支配欲に満ちた声が聞こえる一方で、静流の笑顔を大切に守りたいと、そう願う自分もいる。
初めて手に入れた愛する人の存在が俺の心を不安定にかき乱し、欠けた分身を求めるかのように、俺は心のどこかで常に静流の存在を探していた。
だから、静流が傍らにいない時間が増えていく事に、本当は気づいていたのかもしれない。
******
「乾様、ご報告したい事がございます」
執務室で机に向かっていた俺に、神妙な面持ちで侍従部長が声を掛けてくる。
「今は手が離せない。用件は静流に伝えておけ」
一瞥した後、再び資料に目を落とす。
「山崎副部長に関する事です」
俺は黙って顔を上げた。
「……言ってみろ」
「人払いをお願い致します」
「――永守」
扉の外に声を掛けると、警護隊長の永守が素早い動作で俺の前に立つ。
「林澤との話が終わるまで、誰も入れるな」
「山崎副部長も、でしょうか?」
「……あぁ、そうだ」
「かしこまりました」
さっさと話を聞いて仕事に戻らねばならない。今、手掛けている乾ホールディングスの人事関連書類は、遅くとも明日までには仕上げる必要がある。
そう考えながら応接用のソファへと移動する。
「掛けろ」
俺の許可を得て林澤が向かいの席に着座する。
静流が侍従部副部長として難しい立場に置かれている事は承知していた。
守護対象者の最も近くに侍る侍従部員の選定においては、個々の能力や容姿はもちろんだが、"家系"という要素が最重要視される。数世代あるいは十数世代続くような華道・茶道・武道など各界重鎮の子弟が上席を占める中、一般庶民である静流の存在は異質であり、伝統を重んじる侍従隊員達からの反発は大きかった。
数か月前には静流を陥れようとする謀計が明るみに出て除籍処分となった者もいたが、乾隊内にはいまだ同様の火種がくすぶり続けている。隊内で怪しい動きがないか諜報部に監視を命じてはいるものの、他隊・風紀・寮監など相対する勢力への牽制と情報収集が最優先事項である以上、隊内の膿を全て出し切る事は不可能だった。
「話とは何だ?」
「山崎副部長の無許可での単独行動が目に余るため、部長権限にて彼を調査致しました」
突然、胃がキリキリと痛み始める。
そう言えば、本家の案件に忙殺されて今日は軽い朝食を口にしただけだった。朝食の席で、静流はいつものように俺に向って嬉しそうに微笑んで――。
「静流の何を調べさせた?」
「山崎副部長と美術教師の金本との関係についてです」
「……どういう意味だ」
地を這うような自分の声が耳障りに耳朶を叩く。
林澤が微かに顔を引き攣らせ、早口にまくし立てる。
「かねてから金本は山崎君に好意を持っていたようで、美術を選択している生徒達からは、金本の態度があからさますぎると揶揄を受けていたようです」
静流に好意を寄せる男など吐いて捨てるほどいる。だが、俺のものだとわかっていながら手を出す人間などいない。
何より、静流が俺以外の男に心を許すはずがない。
「いつからかはわかりませんが、二人は定期的に密会を重ねてきたようです」
胃の痛みはさっきまでとは比べ物にならないほど、俺の身体の中心を刃のように抉っている。
「こちらが調査報告書です」
テーブルの上に差し出された封筒には、ただ二文字、"極秘"とだけ書かれている。
鮮血のような赤い文字……。
美しく儚げな容姿にばかり目を奪われて気づかぬ者も多いが、静流は部隊長に任命されるだけの能力を充分に有している。現場での処理能力はもちろん、総合的な判断力・分析力などリーダーとしての資質にも富んでいて、経験を積めば親衛隊幹部として能力をさらに開花できるはずだ。
親衛隊の部隊長クラスともなれば、学園内に様々なコネクションを持つ必要がある。1年の時に諜報部に所属していた静流なら、教職員のルートから情報を収集する術を確保していてもおかしくない。それを"密会"と表現するとは、我が隊の侍従部もずいぶんレベルが落ちたものだ。
「今後、二度と静流についての調査を行う事は許さない」
吐き出す言葉が、棘のように口内へ痛みを伝えてくる。
「もしもこの件について口外したなら、卒業後、我がグループ内におまえの席は無いと思え。……わかったか?」
目の前に座る林澤の顔が蒼白になる。
「はい」
「話は終わりだ」
慌てて席を立ち速足で退室する侍従部長の後ろ姿を見送った後、俺はやりかけていた仕事に戻るべく執務机へと向かう。
刺し込むような腹部の痛みが消える事はなかった。
******
太陽は完全にその姿を消し、室内が闇の中に落ちる。
デスクスタンドの光だけを灯し、目の前の封筒から書類を取り出す。
『山崎静流 侍従部副部長は、月に二度、資料室にて美術教師である金本と密会を繰り返しており、二人の関係は性的なものを含んでいると思われる』
目の前の機械的な文字列を俺はぼんやりと眺めた。言葉の意味を理解する事を脳が拒絶している。
こんな簡単な一文で、静流の何がわかる。
(「乾様……好きです」)
初めて静流を抱いた夜、俺は他人と肌を触れ合わせることの意味を知った。それは、それまで自分が教わってきた肉体的欲求を処理するための行為などではなく、身体と共に心をも深く重ね合うことだった。
(「好き、です……乾様が、好きです……」)
痛みと快感に身を震わせ、涙に濡れた瞳で俺を見つめながら、静流は幾度もそう告げた。
二人で過ごした時間だけが真実だ。
机の上へ視線を戻すと、封筒の開封口から写真の角が覗いている事に気づく。
(写真……?)
ザワリと心の中で何かが蠢く。
写真を取り出す手が微かに震えているのを、俺は他人のような感覚で見つめる。
望遠レンズで窓越しに撮影したのだろうその写真は、カーテンの隙間から二人の男性の姿をとらえていた。
――椅子に腰掛ける静流と、ひざまずき、宝物のように捧げ持つ爪先へ口づける金本の姿を。
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