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[43. 高校2年・冬【優斗】]
「乾会長は終日ご不在との事です」
会長室へ取次ぎの内線を入れた親衛隊長が、そう告げる。
その知らせに、今日は宇津木家の祝賀行事が行われている事を思い出す。
蒼が宇津木家内々の行事に招待されるという事は、乾・宇津木両財閥の関係がビジネス上の提携を越えて、一族間の繋がりへと広がる可能性を示唆している。
「では、山崎君を呼んでくれ」
「かしこまりました」
しばらくの後、ドアが小さくノックされる。
「入りなさい」
副会長室へと足を踏み入れた静流が一礼する。
「お呼びでしょうか?」
「来週の実行委員会の件だが、資料の進捗はどうなっている?」
「正式な決算書が出来上がるにはあと数日必要だと思われますが、現時点での試算表を先ほど羽賀様から受け取りました。また、来期予算案については各部の評価基準案の策定が完了致しました」
手渡された資料には、緻密に分析された各種データがわかりやすく表示されている。
「この資料は、会長室と会計室が共同で作成したのか?」
「はい。乾会長のご指示で、会長室が会計室のサポートに入りました」
決算期や役員交代の引継ぎの時期は生徒会の仕事量が膨大になるため、親衛隊から各役員室付きとして臨時要員が選ばれ業務を行う。この間、全体の動きを把握しながら各所に配置した人材の管理監督を任された静流の仕事ぶりは見事なものだった。
ページをめくる音だけが静謐な部屋に響く。
「……いい出来だ」
「ありがとうございます」
僕の言葉を受けて、静流の顔に安堵の感情がちらりと覗く。
その瞬間、会長側近らしいそつのない態度と表情に、初めて会った頃の無垢な面影が重なる。
(「静流って呼んでもいいかい?」)
(「はい!」)
幼い子供のようにキラキラした瞳で僕を見上げていた君……。
「今、少し時間をもらってもいいかな?」
執務机を離れ接客用ソファへ移る僕を、静流が怪訝そうに見つめる。
「君と二人きりで話すのは一年半ぶりだね」
戸惑うように立ち尽くす彼へ、そう声を掛ける。
「二人の時は静流と呼んでもいいかい?」
「西城様……」
「そんなに警戒しないでくれないか。少し話がしたいだけだ。確かに西城隊と乾隊はライバル同士だが、生徒会での我々は同じ目的を遂行する仲間だろう?」
「はい。……ご不快なお気持ちにさせてしまったようでしたら申し訳ございません」
そう言って頭を下げると、向かいの席にそっと腰掛ける。
「生徒会というのは不思議な組織だとは思わないか?」
僕の問い掛けに、静流が俯いていた顔を上げる。
「この学園のどの組織も、守護対象者を中心に自分達の力を拡大する事にばかり必死になっている。だが生徒会だけは、複数の守護対象者と親衛隊が力を合わせて責務を務め上げる例外的な組織になり得る。――その理由がわかるか?」
「……規模の違い、でしょうか?」
打てば響くような明晰な答えに思わず笑みがこぼれる。
「その通りだ。風紀委員は二十名強、寮監にいたってはわずか9名。これに対して生徒会は、実行委員・クラス委員を含めて50名近い構成員がいる。だからこそ、寮監や風紀のように同系列の人間ばかりを採用するわけにはいかない」
静流が小さくうなずく。
「それでも通常の生徒会長なら、己の権力を強固にするために各委員をできるかぎり同グループの子弟で占有しようとするものだ。……だが、蒼は違う」
言葉を切る僕を静流がじっと見つめる。
「蒼は、旧態依然とした組織の悪弊を減らし、実力ある者が効率的に正しく生徒会を運営すべきだと考えている。それは、この学園の悪習に捕らわれない彼の強さだ」
蒼への賞賛の言葉に、静流の瞳が輝き出す。純粋な憧憬と羨望。
あの時、僕を見つめて微笑んだ君のように。
「今期の生徒会は、羽賀君と天堂君を筆頭に各委員達が能力を充分に発揮できた。だが、来期はそうはいかないだろう。……今期のメンバーで来期も生徒会に残る者はどの位いると思う?」
「6割強かと」
「僕もその程度だと読んでいる。そして、残り4割の新任はかなり雑多なメンバーになるだろう」
"雑多"というニュアンスの意味を理解したらしい静流が、厳しい面持ちで僕を見返す。来期の生徒会委員に食い込んでくるだろう者の多くは、親衛隊間の愚かな権力闘争を生徒会内へ持ち込む可能性が高かった。
「四役補佐の事務方で経験者として残るのは君一人だ。重責になるだろうが、来期もよろしく頼む」
「はい」
2年に上がり、何かを恐れるかのように僕から視線を逸らすようになった静流が、今は真剣な眼差しを向けてくれている。
(「西城様とお話していると、すごく幸せな気持ちになります!」)
もう一度あんな風に、君と心のまま語り合うことができたなら……。
「来年度は乾隊副隊長に着任すると聞いたよ」
「……さすがに情報が早くていらっしゃいますね」
公表前の機密情報に対して、静流が困ったような苦笑を見せる。
「君は侍従部長になるものだと思っていたが」
僕の言葉を聞いた瞬間、静流の表情が固くなる。
(やはり、この人事には裏があるのか……)
「むろん君の実力なら、副隊長の方が適任だと思うが」
「ありがとうございます」
社会的後ろ盾の無い静流が卒業後も蒼のそばにいるために、親衛隊隊長に次ぐナンバー2の地位を手に入れようとするのは当然かもしれない。だが侍従部を離れる事で、蒼のそばに付き従う立場を他の隊員へ譲らねばならなくなる。諜報部からの情報によると、静流自らが副隊長に立候補したという事だったが、蒼を強く恋い慕う彼にとって、それは苦渋の決断だったに違いない。
想いが強ければ強いほど、人は執着に絡め取られて、本当の願いから遠のいてしまうのかもしれない……。
「今日、蒼が招待されたパーティの内容を知っているかい?」
「……いえ」
突然の話題の転換に、静流の声に微かな戸惑いが混じる。
「宇津木本家の次女にあたる方の誕生会だよ」
誰よりも優しくしたいと思っている相手を、僕は今ひどく傷つけようとしている。
「蒼の婚約者候補の一人だ」
静流が小さく息を呑んだのがわかった。
「蒼には定められた道を歩かねばならない義務がある。数年後には決められた相手と婚約し、結婚することになる。……それでも君は、これからも蒼のそばにいるのか?」
大切な人の心を傷つけてまで、僕は何を聞きたいのだろう?
一体どんな答えを求めているというのか……?
沈黙が重く心を締め付ける。
「……僕は」
顔を上げた静流が切なげに微笑む。
「乾様が望んで下さるかぎり、いつまでもおそばに仕えます」
どんなに願っても、目の前の人は僕のものにはならない。
彼の心は、ただ一人だけに捧げられているのだから。
「権力の上に立つ者は、絶対的な孤独とともに生きていかねばならない」
静流の瞳に宿る慈愛の光に吸い寄せられるように、言葉が口を突く。
「そして、その孤独に寄り添ってくれる相手を切望している」
だからこそ、僕たちは夢を見る。
孤独を癒す誰かの存在を待ちわびて。
その相手に出会う奇跡を願いながら。
「蒼には、君が必要だ……」
静流の瞳が小さく見開かれ、浮かび上がった涙が湖面に映る月光のようにキラキラと揺れる。君の全てが、いつでも僕を魅了してやまない。
それが、決して手の届かないものだとわかっていても。
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