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[44. 高校3年・春【蒼】]
「今夜は鎌倉へ行ってくる」
朝食を終えた後、静流にそう告げる。
鎌倉の祖父の元を訪ねるようにと、昨夜、本家から突然の連絡が入った。
年に数回、あらかじめ定められた日時にしか会う事のできない祖父――乾グループの実質的支配者である乾 雄一郎――からの初めての呼び出しに、俺は奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
「夕食はどうされますか?」
俺に制服の上着を差し出しながら、静流が問い掛けてくる。
「遅くなるかもしれないが、戻ってから取る」
「はい。お待ちしております」
手渡されたジャケットに腕を通しながら答える俺に、静流が柔らかく微笑んでみせる。
レースのカーテン越しに射し込む朝の陽射しを受けて、光輪を背に抱く天使のように静流の輪郭が光の中に溶け込んでいる。
毎夜のように抱きしめる静流の体は、染み一つなく限りなく美しい。あの身体に俺以外の誰かが触れることなどあるはずがない。
金本とのあの写真には、きっと理由があるはずだ。
そう思うのに、静流にそれを尋ねることができなかった。
(「山崎君は相手の心に共振することができるのだと思います」)
オーバーブルームの研修を終えた後、神代はそう言った。
(「おそらく山崎君の持つ共鳴力は、頭で考えているとか演技をしているとか、そういうレベルではないのでしょう。相手の深層部にある最も強い感情を汲み取り、自分でも意識しないまま相手が欲するものを与えようとするのだと思います」)
もしも静流が、そうして俺の心を読み取り、無意識に俺の望む姿を演じているだけなのだとしたら?
本当はもう俺を愛していないと、他の男の元へ行きたいと、そんな言葉が静流の唇から発せられたとしたら――。
その時、俺は、静流の喉を締め上げて永遠に言葉を発する事ができないようにしてしまうかもしれない。自らの手の中で誰よりも愛しい人の生命の光が消えていくのを見つめながら……。
脳裏に浮かぶ暗い想念を、俺は打ち消す。
だが、あまりにも残虐なその光景は甘い香りを伴って俺を魅了する。
「乾様……?」
立ち尽くす俺に不思議そうな眼差しを向ける静流へと、ゆっくり手を伸ばす。滑らかな頬をなぞり、たおやかな首元へと指を回す。
二度と誰の目にも触れぬよう、誰の名も呼ばぬよう、永遠の頸木の中に静流を閉じ込めてしまえば……。
「……行こう」
「はい」
いつものように静流と二人で校舎棟へと足を向ける。
心の中に巣食う悪魔を飼い慣らしながら。
******
東門の駐車場で待っていた山辺が、俺の姿を認めて車の後部ドアを開ける。
「今日の呼び出しに関して何か聞いているか?」
「いえ。本家にも昨夜遅くに突然連絡が入ったらしく、詳しい指示は出ていないようです」
「そうか……」
放課後の喧騒を背に、車は広大な学園敷地を後にする。
ここから鎌倉までの長い道のりを考えるだけで気が重くなる。分単位で組まれた日々のスケジュールに、無駄な移動時間が加わった事への苛立たしさもある。だが問題なのは、消費される時間だけではない。親族でも滅多に面会の機会を持てない祖父が、俺を呼びつけた理由だ。
夜の帳に包まれていく窓の外を見やりながら、予想される事態に対処すべく意識を集中させる。祖父相手でも決して怯むことのないように。
鎌倉の邸宅には祖父との面会を希望する政財界の大物達が出入りしている。彼らの訪れは基本、内密の用件であるため、敷地内で訪問者同士が顔を合わせる事がないように様々な配慮が施されている。無人の駐車場に車を停め、庭園内の切石敷を歩いて行くと、玄関前に俺の到着を待っていたらしい女中頭の吉江が立っていた。
「蒼様、お久しぶりでございます」
「正月に会ったぶりだな」
「はい。お元気そうなお姿を見れて嬉しゅうございます」
そう言って優しく微笑む吉江は、幼い頃に身の回りの世話をしてくれた乳母のような存在だった。
俺を屋敷に招き入れると、先に立って廊下を歩き始める。
「応接室へ行くんじゃないのか?」
いつもの部屋を通り過ぎ、さらに奥へと進んでいく吉江へ問い掛ける。
「いえ。……本日は書斎にてお会いされるそうです」
通常とは異なる状況に、嫌な予感が膨れ上がっていくのを感じる。
やがて目的地らしい部屋の前で吉江の足が止まった。
「蒼様がお見えになりました」
重厚な造りの扉をノックし、吉江がそう告げると、中から「入れ」と声が掛かる。
「失礼します」
俺はドアを開けて深く一礼する。
目を上げると、書斎机に座っていた祖父が席を立った。
70歳を越えているとは到底思えない威風堂々たる容姿と、戦中戦後の混乱期を統御した者特有の強剛さを感じさせる鋭い眼光。
「座りなさい」
目線で示されたソファへ向かい、祖父が座るのを待ってから腰を下ろす。
「呼び出された理由がわかるか?」
挨拶を交わす間も無く、祖父が口を開く。
「……親衛隊に関する事でしょうか」
「わかっているようだな。では、おまえは状況を理解していながら意図的に放置しているのか?」
「私は、現状の親衛隊制度には問題があると考えています」
「くだらない事を言うな。まさか、アメリカかぶれの室井にでも影響を受けたのか?」
驚いて目を上げると、底冷えするような視線が俺を貫く。
「私が何も知らないと思っていたのか? 学園内の事は全て私の耳に入るようになっている。……乾の跡継ぎであるおまえの動向については、特にだ」
祖父のその言葉に、自分の考えが甘すぎた事を思い知る。
「私は男色に対する偏見はない。私も海聖の卒業生だからな、事情はよくわかっている。むしろ、肉欲などに惑わされぬよう侍従隊を使って定期的に吐精すべきだという考えを支持している。だが、まさか、おまえが恋愛などという浮ついたものに夢中になるとは思ってもいなかったぞ。正直、落胆した」
「御祖父様、私が考える親衛隊の問題点は――」
「蒼」
放たれた厳しい声に空気が張り詰める。
「私は理由を聞いているのではない。いいか、乾の血を引くおまえが、自らの立場を忘れ、守護対象者としてあるまじき采配を続けていることが問題なのだ。感情などという馬鹿げたものに振り回されるな」
全身に重石を縛り付けられたかのように身体がひどく重くなり、地面の中へ沈み込んでいくような錯覚に捕らわれる。
「これ以上、愚かな行動を続けることは許さん」
自ら望んだ唯一のものさえ、俺は手にすることが許されない。
「おまえは乾の人間なのだ」
幼い頃、母を奪ったように、今度は、俺から静流を奪っていくのか……。
******
「青島親衛隊長がお待ちです」
4月最終週の金曜日。
生徒会の打ち合わせを終えて執務室へ戻ると、新任の侍従部副部長がそう告げた。
「通せ」
分厚いファイルを手にした青島が俺に向って一礼する。
「入隊者リストをお持ちしました」
例年この時期は、新入生の入隊希望者に対する選定に多くの時間が割かれる。入隊の可否については幹部会に一任しているが、入隊が決まった生徒の派閥、実績、能力等を把握するために資料に目を通すことにしていた。
青島が差し出す資料を手に取り、リストアップされた一覧表と個別の履歴書を広げる。
(……静流!?)
入隊希望者の中に、どこか静流を彷彿とさせる少年の写真を見つけてドキリとする。こちらを見つめて微笑む少年を見ていると不思議に胸がざわつく。履歴書には、海星聖明初等部を卒業後にイギリスへ留学した旨が記載されている。パブリックスクールで3年間過ごした後、日本に帰国し、当校高等部へ入学。名前は、杉下 薫。
「本日の定例会では新入隊員の挨拶を行いますが、お見えになりますか?」
「いや。全ておまえの判断で進めていい」
「かしこまりました」
「……青島」
退室しようとする青島を呼び止める。
「はい」
「定例会後、杉下という新入隊員を連れて来い」
「承知致しました」
なぜそんな命令を下そうと思ったのか自分でもよくわからない。柔らかな雰囲気を持つ、幼げな少年……。
手元に置いた原油プラント事業に関する報告書へと意識を戻す。
次の瞬間には、杉下の事は念頭から消えていた。
英文の報告書を読むのに没頭していた俺は、香ばしいコーヒーの匂いに目を上げた。
「少しお休みになってはいかがですか?」
俺の前にコーヒーを差し出しながら、静流が微笑んでいる。
「……そうだな」
ソファへ移ると、いったんは執務用デスクの上に置いたカップを静流が俺の前に移動させてくる。
「定例会は終わったのか?」
「はい」
コーヒーを口に運ぶと芳醇な香りに気持ちが和らぐ。
「ずいぶん熱心に資料を読まれていらっしゃいましたね。海外事業部の仕事ですか?」
目頭を押さえる俺を見て、静流が心配そうに問い掛けてくる。
「あぁ。英文のままだと、どうしても時間が取られる」
「事業部に翻訳を頼まれないのですか?」
「原文のまま読んでおきたい箇所が多くてな」
「なるほど。……では、データ関連の脚注や説明部分だけでも日本語訳いたしましょうか?」
「頼めるか?」
「はい。今日は本隊の仕事に余裕があります」
そう言って、書類を手早く仕分けし始める。
俺が静流を親衛隊内で重用してきたのは、感情に依る理由だけではない。
昨年度の生徒会がそうであったように、いかなる組織も身分や派閥を越えて能力ある者を取り立てるべきだと俺は考えていた。閉塞し始めている現在の社会機能を活性化させるためには、人材の才能と適性を上手く活かさねばならない。
だが、そんな言い訳は、祖父にはもちろん通じない。
彼の命令は常に絶対なのだ。
全ての人間が、その命に対して一切の反論を許されず、唯々諾々と従うしかない。
静流をそばにおいてはいけない。
そうわかっていながら、俺はどうしても静流を手放すことができずにいた。
いっそ何の力も無い囲い者の愛人としてなら、祖父は静流の存在を許してくれるかもしれないと、そんな醜い考えさえ頭をもたげる。
何もさせず、誰にも会わせず、どこへも行かせず、ただ俺の所有物として日の当たらぬ世界に閉じ込めるのだ。そうすれば、静流をずっと俺のそばにおいておける……。
「乾様、どうかされましたか?」
黙り込む俺に、静流がそっと問い掛けてくる。
「……静流」
俺の気持ちを汲み取ったように、静流が静かに歩み寄り、俺の背へ優しく腕を回す。
「静流、俺を決して裏切らないと誓え。……何があっても、ずっと俺のそばにいると」
愛しい人の身体を俺は強く抱きしめる。
美しいおまえの魂を、俺とともに闇へ堕とすことはできない。
「はい。何があろうとも、僕は乾様のおそばにいます。……僕の心を永遠に貴方に捧げます」
静流、俺はおまえを――。
執務室のドアがノックされ、警護隊長の声が来訪者を告げる。
「親衛隊長がお見えです」
静流が席を立ち、俺の後ろへと控える。
「入れ」
「失礼致します」
だが、入室してきたのは青島だけではなかった。
思わず目を奪われる。
「新入隊員の杉下君を連れてまいりました」
緊張した様子で立ち尽くす姿は、まるで……。
青島が退室し、室内に沈黙が落ちる。
「静流、おまえも席を外せ」
「でも、乾様――」
「静流」
「……はい」
静流が淋しそうな声で答えたのがわかったが、命令を撤回する事はできなかった。
執務室の扉が静かに閉じられた瞬間、静流との輝くような日々が終わりを告げたことを知る。
(「――これ以上、愚かな行動を続けるのは許さん」)
「杉下 薫、と言ったな?」
「はい」
伏せていた瞳を上げ、真っ直ぐな眼差しで俺を見つめてくる。
(似ている……)
写真でははっきりとわからなかったが、こいつは静流に似ているのだ。
それも、あの時の、出会ったばかりの頃の。
上気した頬と、俺を見つめる無垢な瞳。
杉下の向こうに、あの頃の静流がいる。
(「感情などというくだらないものに振り回されるな」)
――静流。
俺はおまえを自由にしなければならない。
(「おまえは乾の人間なのだ」)
俺の狂った愛に、おまえを取り込んでしまう前に。
(「山崎を切れ」)
そして、おまえを守るために。
(「もしも、おまえができないというのならば、私が手を下すことになる」)
何よりも、誰よりも。
静流、おまえだけを愛している。
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