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[45. 高校3年・夏【伸】]
ノックの音が室内に響き、俺は席を立って扉を開けた。
「……久しぶりだな」
俺の言葉に静流が伏せていた顔を上げる。
「急に呼び出して悪かったな」
放課後でざわつく寮の廊下には警護隊員らしき生徒の姿は見えない。
「一人で来たのか?」
「うん」
ドア側に体を寄せた俺に応じて、静流が室内へと足を踏み入れる。
俺の私物が全て運び出された部屋の中には、備え付けの家具や家電が残ってはいるが、人が住んでいた気配は既に消え去っていて、閑散とした空気に包まれている。
「……なんだか知らない部屋みたいだ」
カバーの外されたソファへ腰掛けた静流が、部屋の中を見回しながらポツリと呟く。
「そうだな」
がらんとした空間には物寂しい空虚さが満ちていて、俺たちがこの場所で暮らしていた事が幻のようにさえ思える。
(「伸、じゃあ、またね!」)
2年前の今頃、夏休みを迎えて実家へ帰省する静流は、そう言って楽しげに手を振ってみせた。
(「ああ、またな」)
俺もそれに応じて手を上げ、バスの時刻に合わせて早めに寮を出る静流を見送った。
夏休みが終わって学園に戻ったら、また一緒に生活するのだと、そう思っていた。次の夏も、その次の夏も、そうやって互いを見送るのだと、あの時の俺は何の疑いもなく信じていたのだ……。
「今日、寮を出るんだよね?」
「ああ。このまま成田へ向かう」
「そっか」
終業式まで一週間程残っていたが、大学のバスケチームの練習に参加するため、俺は今夜アメリカへ発つことにしていた。
「やっと静流と普通に話せるようになったのにな」
先週末、室井隊は解散式を終え、俺はようやく守護対象者としての任を解かれていた。
「そうだね」
小さく微笑む静流を見て、懐かしい記憶が甦る。
(「静流に"室井様"って呼ばれるの、すっげぇヤダな」)
(「規則なんだからしようがないだろ。ね、室井様!」)
(「二人の時は伸って呼べよ……」)
嫌がる俺を見て静流が笑い出し、それにつられて俺も笑って――。
「半年早い卒業だね。……おめでとう」
あの頃と同じ優しい声で静流が言う。
「アメリカの大学から声が掛かるなんて凄いよね。伸、ずっと部活がんばってたもんね」
「バスケに打ち込めるチャンスをもらえて、ホントありがたいって思ってるよ」
「……伸はずっと変わらないよね」
「成長してないってことか?」
「もちろん違うよ」
俺の返事に静流が苦笑する。
「伸は、自分のやりたい事に対して真っ直ぐに向かって行ってるだろ。障害があったとしても、自分の決めた道を信じて一歩一歩進んでる。……そういうのって簡単そうに見えて、本当はとても難しいことだと思う」
この学園にいるほとんどの生徒達には、自分の未来を決める自由が許されていない。豊かな暮らしと高い身分を保障される代償として、彼らが捧げなければならないものは大きすぎる。
「静流は東京帝大へ進学するんだろう?」
海星聖明の卒業生の多くは最高学府である帝国大学へ進学する。現3年生も、ごく一握りの海外留学組を除いて東京あるいは京都の帝国大学へと進むことになる。当然、乾が東京帝大へ進むのは自明の理だった。
「……うん……」
乾と共に東京帝大へ進学する以外、静流が望む進路は無いはずだった。だが、歯切れの悪い返事を返す静流の重く塞いだ表情を見て、俺は諜報部からの報告が真実だったことに気づく。
乾が新入隊員の一人に特別目を掛けているという報告を受けた時、俺はそれが意図的に流されたデマだろうと思った。平民階級である静流が親衛隊の重職に取り立てられている事に対して、乾隊内部にとどまらず学園全体にも批判や反発の声が根強く、流言が飛び交う事もあったからだ。
誰に対しても人間的な感情を見せた事のない乾が、静流にだけは確かに愛情を傾けていた。自らの立場を不利な状況に追い込んでも静流をそばにおこうとする乾の姿に、俺はやつの静流に対する真摯さを認めたのだ。
だが今、つらそうに瞳を曇らせる静流を見て、乾と静流の関係が変化し始めている事を確信する。
静流の心を傷つけたのだとしたら、俺は決して乾を許さない。
乾が静流の手を離すというのなら、俺は――。
「俺と一緒にアメリカへ行かないか?」
思わず口を突く。
「……え?」
「一緒に、アメリカの大学へ行こう」
考えるより先に零れ落ちた思いを、俺は噛み締めるようにもう一度告げる。
「ここにいたら駄目になる。……この学園も、この国も、歪みが広がり始めてる」
世界各国の勢力図は、今、劇的な変化を遂げようとしていた。だが、長く繁栄の美酒に酔い痴れてきたこの国は、閉じ切った社会の中に閉じこもり、現実から目を背け、耳を塞いでいる。
「静流の成績ならアメリカの大学だって合格できる。ここから抜け出して、俺と一緒に外の世界へ行こう」
無言のまま、静流が俺をじっと見つめる。
「乾から離れるんだ。やつから離れて、自分の本当の幸せを探すべきだ」
「……僕は」
視線を合わせたまま、静流がゆっくりと口を開いた。
「僕の幸せは、乾様のおそばにいることだよ」
「静流!」
「伸にはきっとわからないよ」
静流の瞳の奥に青く燃え上がる炎が見える。
「乾様のことを考えると、自分が自分でなくなってしまう気がする。……でも、離れられない。離れたくない」
それは愛じゃない。
人を愛する気持ちは、そんなふうに心をがんじがらめに縛り付けたりしない。
そう言いたいのに、激情に揺れる静流の美しい瞳に魅入られたまま言葉を失う。
「この想いは間違いなのかもしれない。伸の言うとおり、このまま進めば僕はきっと不幸になるんだろうと思う。……でも、どうしても、僕はこの気持ちを捨てることができない……」
俺はおまえに昔のように笑ってほしいんだ。
だから。
「静流は、自分のその気持ちを貫けばいい」
固く噛み締められていた目の前の唇が小さく震える。
「……伸?」
「でも、つらい事があったらいつでも連絡してこい。アメリカからだって、すぐに飛んできてやるから」
強張っていた静流の体から徐々に力が抜けていくのがわかる。
「あんなやつに惚れるなって、何度も言ったろ?」
「うん」
大げさに肩をすくめてみせると、静流が俺の言葉に小さくうなずく。
「男を見る目が無さすぎだ」
「……うん」
覆っていた鎧を脱ぐように、静流の感情がゆっくりと外へ溢れ出す。涙が頬を伝い、それでも健気に笑ってみせる姿に胸が痛む。
静流が俺に求めているのは友情なんだと、最初からわかっていた。
だから、俺はおまえの求める存在になるよ。
楽しい事、悲しい事、苦しい事――いろんな事を分かち合い、二人で肩を並べて歩いていけるよう。
誰よりも大切なおまえのために。
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