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[47. 高校3年・秋②【静流】]
「僕は、君を愛している」
――あの日。
桜の花びらが舞い散る中庭で、僕は彼らに出逢った。
何ものにも決して染まらぬ漆黒と、あらゆる光を取り込んで輝く黄金と。
(「入学式の日、桜の木の下で君に出会ったあの瞬間から、僕は君だけを見てきた」)
あの時から、僕の心もずっと捉われ続けてきた。
相反する、闇と光。
共にいて更に輝きを増す、その相克たる二人の存在に。
「いけません。貴方は……」
振り返ると、僕を見つめる美しい鳶色の瞳に捕らわれる。
ずっとこの方に惹かれていた。
揺るぎない自信と信念に貫かれた言動。冷徹さの中にふと垣間見える慈愛の情。僕に掛けて下さる優しい言葉の一つ一つにさえも。
「どうか、貴方だけは、……いつでも惑うことなく、真っ直ぐに――」
(「静流といると、なんだか心が温かくなるよ」)
(「僕も、西城様とお話していると、すごく幸せな気持ちになります!」)
貴方といると、無垢だった頃の自分自身を取り戻せたような気持になれた。
まるで、初めて言葉を交わした、あの夜に戻れたかのように。
(貴方は、その高貴な魂にふさわしい道を真っ直ぐにお進み下さい……)
その言葉を飲み込んで、僕は再び口を開く。
「たとえ乾様のおそばにいる事ができないとしても、僕の心は乾様だけのものです。……ですから、貴方のお気持ちに応える事はできません」
目を逸らし、言葉を続ける。
「今後、西城様と言葉を交わさせていただく機会は二度と無いと思います。……今までいろいろお世話になりました」
込み上げてくるものを必死に堪える。
「万一にでも、僕たちがこうして二人で会っている事が発覚したら大変なことになります。……どうか今すぐ、この部屋から退出なさって下さい」
僕には、西城様を愛することはできない。
西城様の言動から深い勇気を貰い、与えられる優しさに心癒されたとしても、僕が全身全霊を捧げて愛する相手は、乾様ただ一人だけだった。
自分自身でさえどうすることもできない、この強く激しい恋情。
いつか、呪縛にも似たこの妄執から解き放たれる日は訪れるのだろうか……?
******
「今後、一切の情報提供を行うことはできません」
諜報部副部長の言葉に、ついに万策が尽き果てたのだと思い知らされる。
じわじわと狭められてきた包囲網から逃れるすべは、もうどこにも残されていないようだった。
「……わかりました」
この部屋に入ってからずっと視線を逸らし続けていた浪島副部長が、ようやく僕を正面から見つめる。
「お力になれず、申し訳ありません」
「いえ、これまで協力していただけて感謝しています。……今回の命令は諜報部長からですか? それとも、三浦隊長の指示ですか?」
「……すみません。それについても、お答えできません」
前諜報部長である奈良さんの指示で、浪島君は2年の時から僕が依頼する諜報活動に携わっていた。これまで僕が敵対する侍従部員達を牽制し続けることができたのは、彼の協力によるところが大きかった。
「山崎副隊長……」
目の前の男性に抱きしめられて、いつもと同じ嫌悪感に襲われる。
「放して下さい」
「俺は、あなたのことを今でも――」
「あなたの身にも危険が及びます」
僕のその言葉に、彼の腕からゆっくりと力が抜けていく。
3年に上がり諜報部の副部長になった彼が、引き続き僕の駒として動いてくれたのは、僕が彼の恋心につけ込んだからだった。
「もう二人きりでお会いすることはないでしょう。……これまでの事は全て忘れて下さい」
名残惜しそうに僕の体を解放し、押し黙ったまま資料室を後にする浪島副部長の背中を、僕はぼんやりと見つめた。
この2年間、僕は敵対する相手を打ち負かすため、あるいは自分自身の権力を強めるために、幾人もの男性の愛情や欲望を利用してきた。
今、親衛隊内での実権を失い、たった一人の味方もいないまま追い詰められていることは、因果応報と言えるのかもしれない。
(ここまで、か……)
愛しい人の心を奪っていこうとする杉下を、僕は乾様から引き離したかった。そのためなら、どんな手段も厭いはしなかった。自らの身に危険が迫っても構わなかった。乾様のお心が僕の元へ戻ってきてくれるのなら、他の何を失ってもいいと、僕はそう思っていたのだ……。
僕が杉下という新入隊員に関して身辺調査を行おうと決めたのは、諜報部所属の彼が、特命で乾様と諜報部との連絡係に任命された時だった。
「山崎副隊長も諜報部にいらした時、この任務に就かれましたよね」
僕と対立関係にある侍従部長は、幹部会でその決定事項を報告した後、僕に向って皮肉な口調でそう告げた。面と向かってそれを口にしたのは彼だけだったが、その場に居合わせた部隊長達も皆、内心では同じことを思っていたに違いない。すなわち「乾様に新しいお気に入りができたのだ」と……。
そして僕は、杉下という少年を乾隊から追放するための手段を画策し始めた。かつて自分が陥れられそうになった罠の中に、今度は僕が彼を引きずり込もうとしたのだ。
どんな人間でも他人に隠しておきたい事の一つや二つはあるはずだ。だから、入隊審査ではわからなかった彼の暗部を探し出してほしいと、僕は浪島副部長にそう依頼した。
調査当初からずっと「何も出ない」と言い続けていた彼から、ようやく進展ありとの報告を受けたのは夏休みを終えた9月中旬、依頼開始から既に3ヶ月半が過ぎようとしていた頃だった。
「"何も出ない"んじゃなくて、"何も無かった"んです……」
言葉を選ぶようにしながら話し始めた浪島副部長の顔には、緊迫感のようなものが漂っていた。
「出生証明書から戸籍、住民票、成績証明書、入学・卒業証書に至るまで、杉下に関するありとあらゆる書類がデータ上は完璧で、何一つ問題が無いように見えるんです。……でも、イギリス在住の両親、日本にいるはずの親戚、パブリックスクールでの友人や教師、そして彼と接触したことのあるはずの人間が、誰一人見つからなかった。……つまり、彼の周りに存在するはずの数百人にも及ぶ人々が、実際は全てフェイクだったんです」
「全て、フェイク? まさか、そんなことが……」
「彼が海星聖明の初等部に通っていた事は事実のようです。ですが、卒業後の杉下薫がいたとされている世界全体が、信じられないほど巧妙に作り上げられた偽物だったんです」
説明を続ける浪島君の声が、微かに震える。
「これだけの仕掛けができるのは、国家レベルの組織です。彼らは何らかの目的のために、杉下薫という存在を使ってダミー世界を作り上げ、……そして何故か、彼を調査する人間がその事実に辿り着くように誘導さえ行っています。だから、僕が杉下を調べた事も、彼の真実に気づいた事も、相手側には全て筒抜けになっているはずです。……これ以上、探り続けるのは危険です。調査は即刻中止にします」
そうして、杉下薫という謎に包まれた人物への調査は、完全に暗礁に乗り上げた。
真実を何ひとつ明らかにできぬまま、僕は激しい焦燥に駆られるしかなかった。
杉下の事実を、すぐにでも乾様へ伝えたかった。あなたのそばにいる少年は偽物で、名前も身分も全てが偽りなのだ、と。
けれど、その頃の僕にはもう乾様へ奏上する手段さえ無くなっていた。
居住の場を東寮のペントハウスから南寮へと戻され、乾隊内部の権力闘争に敗れた事で親衛隊活動を自粛せざるをえず、さらに2学期に入るとすぐ生徒会事務方の任も解かれ、乾様とお会いするチャンスを完全に失ったまま、歯噛みするような思いで、乾様のそばに侍る杉下の姿を見ている事しかできなかったのだ。
******
「鍵を掛けないままなんて、ずいぶん不用心だね」
微塵の気配も感じさせぬまま忍び寄り、彼は背後からそう声を掛けてきた。
「――杉下!」
振り返り驚愕する僕へ、妖艶ささえ感じさせる薄い微笑を向けてくる。
「僕の事を調べてたんだよね? それで、何かわかった?」
乾隊の活動中にこれまで見てきた純朴で愛らしい少年と、今目の前にいる彼とは、まるで違う人間のようだった。顔形は同じはずなのに、今ここにいる存在からは邪悪なものさえ感じてしまう。
「わかるわけないよね~。いくら調べたって、あんた達に僕を理解することなんかできやしないんだから」
見下すような口調でそう言い放つ。
「……君は一体、何者なんだ?」
僕のその問いに対して、杉下はさも嬉しそうな笑顔を返してくる。
「あんたと同じさ。偽りの姿で他人を欺き、彼らの心を自在に操る」
「……オーバーブルーム……」
真実が目の前にある。直感がそう告げていた。
重要なピースが、今ここに存在している……。
「あんたもトリプルAを取ったんだってね。それを聞いて、この学園に来ようと決めたんだ。……これまでトリプルAの冠を持つ人間は僕だけだったからね」
彼の瞳が、暗く鈍い光を放ち始める。
「目障りだから、さっさとあんたを消しちゃいたかったんだけど、なかなか尻尾を掴ませてくれないからさぁ。思ったより時間が掛かっちゃったよ~」
そう言うと、今度はクスクスと笑い出す。
「乾様を裏切ってる証拠ならすぐに見つかったんだけど、さすがにあんたも乾隊内部でしか乳繰り合ってないしさぁ。なんて言うか、インパクト弱いなぁと思ってたんだよね。……でも、やっと、最強のカードを手に入れたよ!」
おもちゃを見つけた子供のような無邪気とも思えるその表情に、だが僕の背に冷たいものが走る。
「さすがはトリプルAだけの事はあるよねぇ。まさか、あの堅物そうな西城様までたぶらかしてたとは思わなかったよ!」
ポケットから小さな機械を取り出し、僕の方にかざして見せる。
『静流、……君に伝えたいことが、もう一つある』
目の前の機械から西城様の声が流れ始める。
『僕は、君をずっと見てきた。……入学してからずっと、蒼のことを深く愛する君の姿を見てきた』
「……やめろ……」
「音声だけじゃないよ。諜報のプロが使うやつだから、映像も鮮明に撮れてるんだよ」
楽しそうに笑いながら、ディスプレイの画像を僕に見せつけてくる。
『君がどれほど蒼を愛しているか、その愛を貫くためにどれだけ傷ついてきたのか、僕は知っている』
「僕がこれまでしてきた事は、西城様とは何の関係もない!」
「そんなのわかってるよ。あんたと西城様のラブは、超純愛だもんね~! まぁ、その方が罪深い気もするけど」
おどけた口調で言いながら、機械を高く掲げて道化のようにクルクル回ってみせる。
「この3年間、君以外の誰も目に入らなかった。……きっと、この先も君だけに惹かれ続けるだろう』
「熱烈な愛の告白だよね~。乾様の恋人役をしながら、ライバル関係にある西城様までその気にさせてたなんて、なかなかできる事じゃないよ」
『蒼を愛するその心ごと、君を受け止めたい。……たとえ親衛隊隊則に背くことになっても構わない』
「これを見たら、乾様はどう思われるかな? 二度とあんたの顔なんか見たくなくなるんじゃないかなぁ」
「頼む。……西城様を巻き込まないでくれ」
「へぇー。山崎副隊長は、乾様のことより西城様のことの方が心配なんだ?」
「なんでも君の望む通りにする。だから――」
『僕は、君を愛している』
心の奥底にそっとしまい込んだあの瞬間が、土足で踏みにじられ、汚穢にまみれ、粉々に打ち砕かれる。
そしてそれこそが、僕がこれまで他人の心を弄んできた事への報いそのものなのだと気づく。
「あんたは自分がいるべき底辺社会へ戻るんだ。そして、二度と僕の目の前に現れるな」
映像を止めた杉下の口調が、冷酷無比なものへと変貌を遂げている。
虫けらを見るように僕をねめつける瞳の中には、煉獄の炎を想起させる憎悪の念が蠢いている。
「これからあんたに起こる事は、全て僕からの警告だ。……もし、もう一度"こちら側”に戻ってこようものなら、あんたの”大切なもの”は、どんどん失われていく事になる」
そう言い放つと、僕をその場に残したまま悠然と背を向けて歩き出す。
「じゃあね~」
後ろ手にヒラヒラと手をふりながら部屋を出ていくその後ろ姿を、僕は為すすべもなく見送った。
彼の言葉が招き寄せる絶望が何かを、その時はまだ気づきもせずに。
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