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[52. 残痕 ]
「私の家は江戸時代から続く茶道の名家で、我が家の茶室には政治家、企業経営者、旧華族の方々などが多く出入りされます。そういう方たちの中には、後継者教育の一環としてお子様をお連れになる人もいて、特に高貴な身分のお子様方がお越しになる際は、一門の中で年齢の近い者がお相手するという慣習がありました」
微かに面を伏せるようにしながら、川瀬さんはそう話し始めた。
「そういった経緯で私は西城様とご縁をいただき、初等部に通っていた頃は特に親しくさせていただいておりました。西城様には3才下の妹様がいらっしゃるのですが、私の妹が彼女と同じ年齢だった事もあって、妹ともども西城家にご招待していただく機会もあり、特別仲良くしていただいていたのです。……一般のご家庭で育った山崎様は驚かれるかもしれませんが、上流階級と言われる家々では、子供同士の友人関係にも制約が多く、特に初等部では同じ階級の相手としか付き合ってはいけないという暗黙の了解のようなものがあるんです。客観的に見れば非常に愚かな事ですが、小さな集団に属するほど、そういった順位付けが重要視されてしまうのかもしれません。海聖学園という特権階級の子供達ばかりが集まる場所だからこそ、偏見に満ちた権威主義的思考が蔓延するのだと思います。……子供たちだけでなく教師までもがそういった考えを肯定する中、西城様と私たち兄妹が親しくしている事が周囲の子供達には許せなかったのでしょう。私と妹に対する嫌がらせは、学年が上がるにつれエスカレートしていきました」
言葉を切り、僕へと視線を向ける。
「ガーデンで出される料理の薬毒検査が義務化されたのは、いつからかご存知ですか?」
突然話題が変わった事に戸惑いながらも、嫌な予感が膨れ上がってくる。
「いえ、知りません」
「……3年前の春からです」
そう告げた後、小さく息を吐く。
「その当時、西城様は中等部に上がられたばかり、私の妹は初等部の4年生になったところでした。……海聖の中等部には、初等部4年以上の児童を招いて行う交流会というイベントがあって、妹はそれに参加するために中等部を訪れていました。その頃の私はもう西城様とご一緒する事はなくなっていましたが、まだ幼かった妹は周囲からの反感の大きさを理解しきれていなかったのでしょう。イベントでのアテンダント役を西城様にお願いし、西城様はそれを承諾して下さったのです。……その時すでに西城様には親衛隊が作られていたのですが、妹の行動に対する隊員達からの反発と嫉妬は凄まじく、怒りに駆られた隊員の一人が保健室から盗み出した薬剤を妹の食事に混入したのです」
言葉を失う僕に、川瀬さんが疲れたような笑みを見せる。
「幸いな事に、使われた薬は刺激臭が強かったため、妹がその食事を口にする事はありませんでした。ですが、その事件は、私たち兄妹だけでなく西城様のお心もひどく傷つけたのだと思います。……その後、西城様は親衛隊員をはじめ周囲の者に対して、完全に一線を引かれるようになりました」
様々な感情の余波に魂が共振し、心を掻きむしられるような感覚に陥る。
子供達の純粋な友情を、独善的な悪しき価値観で罰しようとする人々の醜い嫉妬。
他人から向けられる激しい憎悪によって、心に深い傷を負ってしまった川瀬さん達の苦悩。
そして、自分の存在が大切な人を傷つけてしまう事を知った西城様の孤独。
西城様はずっと光の当たる道を歩いて来られたのだろうと、僕はそう思っていた。
執着、嫉妬、ねたみ、憎悪――そんな醜い感情が支配する世界とは縁遠い方だと勝手に決めつけていた。
優しく気高いあの方の心の痛みを知りもせずに……。
「けれど今、あの事件以降初めて、西城様が心を開かれる相手が現れました。――それが、山崎様、あなたです。山崎様のお話をされている時、西城様は昔のような柔らかい表情をお見せになります。私には、西城様が山崎様をとても大切に思っていらっしゃるのがわかるんです。……だからこそ、夜会での襲撃事件は、西城様にとって決して許すことのできないものだったと思います。そのために今もきっと、ご自分を強く責められていることでしょう。……そして今日、また薬物混入事件が起きてしまいました。西城様とパートナーになる事を公言されてから、山崎様は既に二度も危険な目に遭われています。過去の事件と重ね合わせて、今、西城様がどんなお気持ちでいらっしゃるかと思うと……」
そう言って、僕に深く頭を下げる。
「どうか、あの方の苦しみを和らげて差し上げて下さい。冷徹で非情だと噂する者もおりますが、本当はとてもお優しい方なんです」
(「僕は君を見ると、とても心が温かくなるんだ……」)
(「何に換えても、君は僕が守るよ」)
過去も、現在も、僕は幾度となく西城様の強さと優しさに助けられてきた。
だからこそ、今度は僕があの方の力になりたい。
西城様の苦悩を分かち合える自分でありたい。
******
カフェテリアでの事件から2日後の朝。
僕は西寮へ向かう小道を歩いていた。
「お休みの日に同行をお願いしてしまって申し訳ありません」
振り返ってそう告げると、すぐ後ろを歩いていた久米さんと椿さんが僕に倣って足を止める。
「いえ。……もし山崎様がお嫌でなければ、今後は休日もおそばにいさせていただきたいと思っております」
久米さんの言葉に、僕は慌てて首を振った。
「とんでもないです! 今でさえ平日は僕のために時間を割いていただいてるんです。これ以上、久米部長にご迷惑を掛けるわけにはいきません!」
「これからは反風紀メンバーも警護に入りますし、シフト的には全く問題ありません」
確かに、部活動の練習や大会で伸が休日に寮にいる事はまず無い。僕が部屋にひとりでいる時は警護の人が待機してくれるようにはなったが、もしも複数の人間が計画的に襲ってきたら対処するのは難しい。
困って隣へ目を向けると、椿さんが快活な笑顔を見せる。
「むしろ、自分がそばにいない休日に山崎様に何か起こらないか心配すぎて、久米部長は胃が痛いらしいですよ」
「――椿」
「はい、すみません!」
警護隊副隊長の椿さんは元反風紀の3年生で、学年的には久米さんより一つ上にあたる。そのためか、いつも歯に衣着せず闊達に意見してくれる。
「久米さん、そうなんですか……?」
「……はい。申し訳ありません」
かしこまる久米部長と、その横で朗らかな表情を見せている椿副隊長が対照的で、つい笑みが漏れる。
「久米部長が胃潰瘍になったら困るので、これからは休日も僕の警護にあたることを許可します」
「ありがとうございます」
真剣な表情で久米さんが僕に頭を下げる。
以前、長友隊長が久米部長について「たった一人で十数人の猛者を倒せる」と評していたが、僕にとっても久米さんがそばにいてくれる時の安心感は絶大なものがあった。
「椿副隊長もちゃんと久米部長をフォローして下さいね」
「もちろんです! 久米部長の代わりに俺が山崎様の直警護に入りたいくらいです」
「それは断る」
その即答に椿さんが小さく肩をすくめる。
「ですよね」
川瀬さんの話を聞いてから、どこか負の感情にリンクし続けていた心が、久米さん達との会話をきっかけに暗雲を払ったかのような晴れ晴れとしたものに変化していた。
西城様とお会いするために、僕は西寮へ向けて再び歩き出した。
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