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[53. 昇華 ]
久米部長が西寮21階のインターホンを押す。
「山崎隊です」
「はい。少々お待ち下さい」
ほとんど待つ間も無く、荻野親衛隊長が姿を現す。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます。……こちらへどうぞ」
僕に向かって丁寧な礼をすると、先に立って歩き出す。
当たり前ではあるが、西城隊の一隊員として逃走ゲーム前に訪れた時とは対応が全く違う。
「荻野隊長直々にご案内くださって恐縮です」
僕がそう言うと、わずかに驚きを含んだ表情で荻野隊長が振り向く。
「……いえ。山崎様は西城様のパートナーでいらっしゃるのですから当然です」
何か言いたげに再び口を開いた後、思い直したように前を向いて歩き出す。
突き当たりの扉の前に到着すると、
「警護の方はこちらの部屋でお待ち下さい」
そう言って隣室のドアを開ける。
久米部長がちらりと物言いたげな視線を寄越す。できれば応接室のすぐ外で待機していたかったのだろう。
「用件が終わったらすぐ声を掛けますね」
僕がそう告げると、久米さんと椿さんが小さく目礼を返してくる。
「山崎様はこちらへどうぞ」
荻野隊長と一緒に扉をくぐると、待機していた侍従部長が頭を下げる。侍従控え室を通り過ぎ、更に奥に鎮座する重厚な扉をノックした。
「山崎様がお見えになりました」
「入りなさい」
僕の姿を認めた西城様が立ち上がって迎えて下さる。
「急なお願いにご対応いただき、ありがとうございます」
「いや、構わない。……今学期に入ってからは、二人で話す機会が取れなかったからね」
「はい」
夜会での事件の後、本当はすぐにでもお話したかった。西城様のお姿を見るたび、駆け寄って「僕は大丈夫です。だから、事件のことはお気になさらないで下さい」そう伝えたかった。だが、合同会議や更科様を含めた三者会談でスケジュールが埋まり、西城様と二人だけでお会いする時間が取れないままだった。
「掛けなさい」
「ありがとうございます」
一礼して目の前のソファに腰を下ろす。
「急ぎの用件があると聞いたが?」
「はい」
どんなふうに伝えればいいのか、その答えが出ないまま、僕はこの部屋を訪れていた。
「……逃走ゲームの時、西城様は僕を守ると、そうおっしゃって下さいました」
僕はゆっくりと口を開いた。
「あの時の僕は、自分に降りかかってくる全ての恐ろしいものから、とにかく逃げたくて、……できるものなら誰にも見つからない影のような存在になりたいと、そう思っていました。目を閉じ、耳を塞いで、恐ろしいものたちが通り過ぎるのをただじっと我慢して待っていれば、自分は助かるんだと、そう思っていたんです」
西城様の真摯な眼差しを受けながら、心が奇妙な静謐さに包まれていく。
「……僕は、いつでも自分のことしか考えずに、目の前の執着にがんじがらめになって、……助けてくれるものがあれば、すぐそれに縋り、利用できるものがあれば、たとえそれが間違った方法だったとしてもためらわず使い、……そうやって自己保身に走ってきました。この学園に入学した後も、自分の身を守るために西城隊に入り、なるべく目立たないよう、面倒な事に巻き込まれないようにと、そんなことばかり考えていました。……でも、逃走ゲームでターゲットに選ばれた時、西城様や室井隊の方々に助けていただきながら、ようやく僕は気づいたんです。……本当は、逃げたかったんじゃない。弱い自分を守りたかったわけじゃない」
伏せていた目を上げ、僕は西城様を見つめた。
「僕はずっと、西城様のように生きたかったんです」
あの頃。
西城様の瞳から必死に目を背けていたのは、そこに映る自分の姿を見たくなかったからだ。
本心に向き合うのが怖くて、必死で逃げ続けていた。
――誰よりも、自分自身を嫌悪していたから。
目の前がぼやけ、溢れる涙で頬が冷たく濡れていくのを感じる。
「僕は、ずっと、自分が嫌いでした。……世界中の誰よりも、自分自身のことが一番大嫌いだった……」
幼い頃、他人とうまく喋ることができなかった自分。
学校に上がってからも、友達の輪の中に入っていけず、いつも独りぼっちだった自分。
乾隊の中で、仲間を騙して、違う人間のようにふるまって、心も身体も汚して。
そんな自分が、死にたくなるほど嫌だった。
そして、僕は、大好きな父さんと母さんまで苦悩と恐怖のどん底に突き落としてしまった……。
「僕は……本当は、自分を殺してしまいたかった……」
声にならない嗚咽が込み上げ、僕は両手で顔を覆った。
流れる涙を止めることができない。
「うっ……うっ……」
優しい腕が、そっと僕を包み込む。
声を殺して忍び泣き、しゃくりあげる僕を、ただ黙って抱きしめて下さる西城様の胸に頬を寄せながら、流れ落ちる涙が温かく柔らかいものへと変わっていくような気がする。
殺したいほど憎んでいた過去の自分への鎮魂の涙のように。
僕はゆっくりと西城様から体を離した。
「……すみません。西城様のシャツを濡らしてしまいました」
泣き腫らした顔を見られるのが恥ずかしくて、俯いたまま言葉を続ける。
「レストルームをお借りします」
部屋の奥にあるレストルームに入り、冷たい水で顔を洗い流す。
そっと鏡を覗き込むと、真っ赤に目を腫らした自分がいる。
「ごめんね」
僕自身が誰よりも自分を大切にしなきゃいけなかった。自分を好きでいてあげなきゃいけなかったんだ。
鏡の中の自分が僕を見つめ返している。
「……もう間違わない」
西城様の元へ戻り、深く頭を下げる。
「お恥ずかしいところをお見せてして申し訳ありませんでした」
ソファに座り、僕は西城様を正面から見つめた。
「僕はもう逃げません。どんな事が起ころうと、後悔しないと決めたんです。自分の決断が引き起こす良い事も悪い事も全て、自分の責として背負っていこうと、そう決意しました。……僕と西城様が選んだ道は、とても厳しく険しいものだと思います。でも、それを理解してなお、僕たちはこの道を進むと決めました。妨害や策略が襲い掛かってくることは承知の上です。でも僕は、傷つけられることを恐れるのではなく、自分の本心に反して生きることを恐れる人間でありたいと思っています」
僕を見つめる西城様の瞳に、穏やかな光が満ちている。
まるで自分に語り掛けるように、静かな口調で話し始められる。
「……そう、僕も、ずっと逃げ続けてきたのかもしれない。……僕はこれまで、大切なものを失うことを恐れ、人々の醜い感情を目にすることを嫌悪するあまり、周囲に壁を作り、他人を拒んできた。自分の弱さや過ちを受け入れることができずに、目を背けていたんだ。……以前、僕が君に、なぜ敢えて困難な問題に立ち向かうのかと、そう尋ねたのを覚えているかい?」
「はい」
貴賓室で初めて会談した日。学園の改革を口にした僕に、西城様はそう問われた。
「あの時、君は『悔いること無く生きていきたいから』と、そう答えた。君のあの言葉が、何故ずっと心に残っていたのか、今、わかった。……後悔しない生き方とは、どんな未来が待ち受けようとも、それを全て自分が選んだ運命として受け入れるということだ。だからこそ、現在の自分は、一片の悔いも残さぬよう、出来得る限り精一杯の言動を尽くして、あらゆる困難に立ち向かっていかなければならない」
その言葉に僕は小さくうなずいた。
「ありがとう……」
西城様が柔らかく微笑まれる。
「君は、大切な心の奥を見せてくれた。出会って半年しか経たない僕のために」
(――いいえ。貴方は、ずっと僕を見守っていてくれた)
「僕はこれからもずっと君と一緒にいたい……」
言葉が途切れ、視線が絡み合う。
「君が好きだ」
瞬間、何度か感じたことのある目まいのような感覚に襲われる。
時空を駆け未来へ舞い戻ったかのように、僕は2年後の世界にいた。
資料室にそよぐ風を頬に感じながら、背後に立つ西城様の声を聞いている。
『僕は、君を愛している』
耳元に落ちるその甘い声に、心が震える。
『どうか、貴方だけは、……いつでも惑うことなく、真っ直ぐに――』
「君の気持ちがどこにあっても構わない。ただ、僕の想いを伝えておきたかった」
「西城様……」
(「蒼を愛するその心ごと、君を受け止めたい」)
貴方は、いつでも限りなく寛容で、そして優しすぎる……。
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