第5部 Last Piece [現在]

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[57. 嵐] 貴賓室の窓に雨のつぶてが激しく打ち付けている。 幾何学模様の常緑樹が広がる美しい仏蘭西式庭園は激しい雨の中に沈み、空は真っ黒な暗雲に覆われている。 小さくノックの音が響き、扉が小さく押し開かれた。 「乾様がお見えになります」 長友隊長の言葉に僕はゆっくりとうなずいた。 「はい」 窓際を離れ下座の席横へと移動するのと同時に、貴賓室の扉が大きく開かれる。 臨時合同会議から2週間ぶりにお会いする乾様の姿に、胸がきゅっと締め付けられる。 「このたびは会談の機会をいただきありがとうございます」 「来年から始まる生徒会執行に向けて、俺も会談の場が必要だと思っていた」 一礼する僕にそう言葉を返しながら、乾様が窓を背にした上座へと腰を下ろされる。それに合わせて僕も、対面する側の椅子へと着座した。 「これほど早くお時間をいただけるとは思わなかったので驚きました」 杉下との面接後すぐに二者会談を申し出た我が隊の交渉部に対して、乾隊からは即座に3日後の日程にて承諾の回答が返ってきた。 「急ぎの案件なのだろう?」 「……何故そう思われたのですか?」 乾様の多忙さをよく知るがゆえに、僕は交渉部に日程の指示を出してはいなかった。 「親衛隊間の階級による礼節を重んじるおまえなら、会談要請の前に儀礼的な挨拶文を送ってきたはずだ。だが、今回はそうしなかった。……つまり、略式にしてでも会談を急ぎたい理由があったという事だ」 驚いて見つめ返す僕に向って、乾様が静かな笑みを見せられる。 「違うか?」 「いえ、おっしゃる通りです……」 共に時を過ごした2年の歳月を思い返す。 この方はいつでも僕を深く信頼し、理解して下さっていた。 「統合室の承認方法に関してご相談したいのですが、正式任命はいつ行われるおつもりですか?」 「2月初旬でスケジュールを組もうと思っている」 「……できれば、12月の生徒総会で執行部の新職位設立と着任の承認を取り、正式な任命手続きを完了したいのです。そのために乾様のお力を貸していただけないでしょうか?」 生徒会組織の改編というような重要案件については、形式的なものとはいえ、シーセント代表会議まはた生徒総会、いずれかの最終承認が必要だった。 「生徒総会は1ヶ月後だ。その議題を挙げるには根回しの時間が足りなすぎる。……現状、承認に必要な4分の3を押さえられる確率は高い。だが、フリーの生徒の浮動票や反対派の動きも読めていない。来年に入れば新役員の正式執行が開始され、臨時総会を開く事も可能になる。できる限りこちらに有利なタイミングで確実に事を進めるべきだ」 「通常ならば、乾様のおっしゃる通りだと思います」 「通常ならば?」 「はい。臨時総会を開くとなると、学内行事が落ち着く2月以降になります。そして、その場合、総会の前にシーセント代表会議が開かれます」 「必ずしもシーセントで議題に挙げる必要は無い。もしシーセントを使うとしても、反対派を抑えるための準備期間は十分にある」 「次回のシーセント会議は荒れるかもしれません。反対派が統合室の件を議題に挙げてきた場合、我々の手に負えなくなる危険性さえあります」 「なぜ、そう思う?」 胃が捻じれるような痛みを覚えて、僕は小さく息を吐いた。 「――杉下薫を、覚えておいでですか?」 杉下の名前に対してどんな反応をされるのか、それを見るのが怖くて僕は目を伏せた。 「先週入学してきた転入生だな。その生徒がどう関係している?」 「……夢には出てきていないのですか?」 (「蒼は、杉下が名前も身分も偽っていることを知っている」) 西城様からそう告げられた時、僕はその言葉を受け入れる事ができなかった。乾様の杉下への寵愛がそれほどまでに深いのだと信じたくなくて、耳を塞いだのだ。 けれど、あの時の西城様の言葉が、別の意味を含んだものだったとしたら? (「それを知った上で、蒼は彼を自分のそばに置いているんだ」) 自分を欺いている事を知りながらも、あえて杉下をそばに置かれたのは、愛情によるものではなく別の理由があったのだとしたら……? 「何故そんなつらそうな顔をする?」 ハッと顔を上げると、目の前の乾様に過去の残像が重なる。 (……蒼様……) 「この世界のおまえと、俺の夢に出てくるおまえは同じ人間じゃない――静流は俺にそう言った」 美しい黒曜の瞳に捉われながら、僕に語り掛ける懐かしい声音に切なさが押し寄せる。 「それでも俺は、夢の中のおまえも、今ここにいるおまえも、同じ存在だと感じている。こうして一緒にいると、よりその気持ちが強くなる。静流がそばにいると、夢の中で感じていた安らぎのようなものを思い出す。……だが、おまえが言ったとおり、あれは違う世界の幻だと思うべきなんだろう」 そう告げた後、乾様がスッと僕から視線を逸らされる。 「おまえは時々そうしてひどくつらそうな顔をする。……俺がおまえを傷つけるのだとしたら、……俺のそばにいない方がいい。……そうすれば、静流はあの夢のように悲しまずに済む」 この方のそばにいたかった。 僕にだけ見せて下さる優しい笑顔が、温かな言葉が、何よりも大切だった。 「毎日のようにおまえの夢を見る。時々、どちらが真実の世界なのか、わからなくなる。……あれは何だ? 俺たちが見ているのは、この世界の未来なのか……?」 何故、僕と乾様だけが未来の夢を見ているのか、いくら考えても答えは見つけられなかった。けれど、あの夢こそが、僕と乾様の間に特別な繋がりを与えているのは紛れもない事実だった。 そして僕は、乾様との間で共有する記憶を、乾様が僕に抱いて下さる信頼や情愛さえも、未来を変えるための手段にすると決めたのだ。 (「乾は、暴漢に襲われそうになったおまえを身を呈して守った。……やつの心をそれほどまでに動かせるのは、静流、きっと、おまえだけだ。……海星聖明学園の象徴とも言える乾を変えることのできる人間がいるとしたら、それは、おまえだ」) 伸にそう言われた時、僕は気づいたのだ。 あの夢こそが、乾様を動かすことのできる唯一の方法なのだと。 「あれは、この世界のもう一つのシナリオなのだと思います。そして、僕たちは違う未来を選ぶチャンスを与えられた……。乾様は、階級や門閥によらず人々が才能を活かせる社会にすべきだと、ずっとそうおっしゃっていました。そして、それを可能にする(いしずえ)は、この海星聖明学園にこそあると僕は思っています。外の社会と隔絶されたこの中で、独自の友情や繋がりを築き、自由な発想や生き方を模索し、新たな時代の潮流を生み出す事ができる。この学園こそ、そんな場所となるべきです」 沈黙が落ちた室内に激しい雨音だけが響く。 乾様が真っ直ぐに僕を見つめ、そしてゆっくりと口を開かれる。 「……『身分や保有する権力によらず、全員が平等な立場で意見を闘わせるべきだ』――シーセント代表会議で静流がそう言った時、俺は、暗い夜が明けていくような……突然目の前が開けたような、不思議な感覚に襲われた。……そして、俺はずっと、誰かにそう言ってほしかったのだと気づいた」 誰よりも高い地位と優れた指導者としての才能を持ちながら、乾様は常に妾の子という出自により一族から白い目を向けられていた。乾様の母親は没落した旧華族の出身で、本家の近くに居住する事さえ許されない日陰の身だった。本妻に子供がいないという理由で本家に引き取られ嫡子となった乾様に対して、母親の身分の低さを理由に批判する者達は絶えなかった。後継者の地位を狙う者達からの策略や裏切りと、乾様は幼い頃からずっと戦ってこられたのだ。 「乾のために生きろと、そう繰り返し教え込まれてきた。一族や財閥を守り、この社会の階級制度を維持する事こそが俺の役目なのだと、幼いころからそう言われ続けてきた。……だが本当は、身分も血筋も関係なく、誰もが自由でいられる、そんな世界で俺は生きてみたかったのかもしれない……」 どこか遠くを見るような眼差しで、乾様が小さく呟かれる。 次の瞬間、雷鳴が轟き、白い光が部屋中に満ちる。 「――本題に戻ろう」 乾様の口調が厳しいものに変わっている。 「杉下という生徒が、この学園の未来にどう関わってくる?」 「彼は、国家レベルの組織から送り込まれたオーバーブルームです」 僕の言葉を聞いた乾様の表情が微かに(かげ)る。 「諜報部が杉下について調査を行ったが、特に問題は無いとの報告を受けている」 「はい。彼の情報は巧妙に隠されています。彼を探ろうとすれば、相手側の組織に全て探知されるようになっているので、安易に手を出すのは危険です。彼の目的が何なのか、ターゲットが誰なのか、まだ何もわかっていません。……ですが、今、彼は自分の親衛隊を作ろうと動き始めています」 杉下を探る特命班からは、既に親衛隊の幹部候補は選出済みで、今年中の発足に向けて動き出しているとの報告が入っていた。 乾様か西城様を狙うなら、どちらかの親衛隊に入隊する必要がある。そうしなければ、守護対象者へ近づくことすら難しい。だが今、杉下は自らが守護対象者になろうとしていた。それは、彼の目的に変化が生じたという事なのか、それとも、この世界の方が変化してしまった結果なのか……? 「杉下は外部からこの学園に送り込まれています。つまり、彼は現体制側の人間で、彼が守護対象者になった場合、生徒会改編に反対する勢力を取り込んで改革の阻止へと動いてくる可能性が高いと思います。さらに彼の背後にいるのは、僕たち学生には太刀打ちできないような巨大な組織です。……杉下がどれほど優秀なオーバーブルームであり、そして残酷な人間であるか、僕は嫌というほど知っています。……だから僕は、彼の意図をくじきたい。あの夢の世界のような未来には決してしたくないんです」 乾様の峻厳たる視線を受け止めながら、僕は言葉を続けた。 「あの世界で、乾様は杉下の本当の姿を知っていらっしゃいました。……おそらくこの学園の中でただ一人、杉下と彼の背後にいる者の真の目的を理解していらしたのが貴方です」 「……神代と話をするといい」 わずかな沈黙の後、乾様がそう告げられる。 「オーバーブルームの事を詳しく知りたいなら、神代に話を聞くのがいいだろう。杉下に対抗する手段が見つかるかもしれない」 「はい」 「統合室承認の件は、来月の生徒総会で議題に挙げる事を検討しよう。……もう一度、新旧役員の合同会議を開き、意見の集約を行う必要がある」 「ありがとうございます」 窓の外では稲妻が空を白く切り裂いていく。 「……嵐が来るな」 「はい」 清冽なその横顔に潜む暗い影を感じながら、僕は天を駆ける巨竜のごとき(いかづち)を見つめた。
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