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空港からバスを乗り継いで駅へ。土曜日の街は、人混みでごった返して、まるで誰も私の事などは気にしていない。
預けている鍵を持ってきてもらった。彼女が扉を開くと、廊下に明かりが射す。たくさんのダンボールが真新しい床材の上に並んでいる。
コーキングとアルコールのにおい、水道管も、エアコンも、処置がされていることが、彼女のしっかりとした結果を出す仕事ぶりを示していた。
「ありがとう。」
部屋に入って、すぐ、口をついていた。
「お願いばかりで申し訳ないけど、お願いして、本当に感謝しかないな。すごい。」
新しい拠点になる部屋に、それが現実として実感できたことに、感嘆の息が思わず漏れてしまう。
『いえいえ。』と 彼女は、はにかむ。
さっそく背広の上着を脱いでワイシャツの袖を捲って言った。
「じゃあ今日はもういいよ、また。」
彼女は玄関横のクローゼットからハンガーを出しながら、
『夕方に。』
と言った。
やわらかに笑って手を振る彼女は可愛らしい。
届いたダンボールから、書類や備品をセットしていく。
___
『いつもの店で。』と言って差し支えないくらいにはなったのだな。
彼女が電話にかかって席を外している間、ぼんやりと思考を巡らせた。
本来の役回りに当て嵌めれば、今の自分は、嘘を重ねて、"適切な男"の殻をつけただけ。
そう、この皿の上に横たわっている牡蠣の殻。
炭酸カルシウムで固着していくように一言一言が積み重なって
いびつに作られたもの、こんな殻にくっついたものに、似ている。
はたと思考が戻ってくる。
こんこんとフォークの先で殻のフチを叩く。少し 崩れる。炭酸カルシウムでできた方解石は、「熱を冷やす」。恋とは熱病のようなもの。私のここで幾度も燻っては消えていく。ビシビシとひび割れていくような痛みを伴って、気がついてはいけない気持ちが燃えさかっては消えていくのだ。
何が真実なのか。彼女の見ている私が私で それが真実ではないのか
見せているもの 演じているもの 振る舞っていればそれが自分ではないのか、嘘なのか
嘘は嘘なのか。引き受けるべき役回りがほんとうの私なのか それとも・・・
泡の抜けたシャンパンをくっと呑み干す。
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