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「……逃げ水が綺麗だな」
コンビニから出てきた父は、私の視線の先を見やるとそう呟いた。
不意に蝉の声がして、世界が戻ってきたような気がした。
父の横顔はなんだか切なくて、今にも泣きそうな表情をしている。私はついその言葉を繰り返した。
「……逃げ水」
「お前、店の中で待ってればよかったのに。こんな炎天下で突っ立っていると倒れるぞ」
父はレジ袋からペットボトルの水を取り出すと、ひとつを私に寄こす。
父の言葉を反芻していた。
思い出した。その後の、母の言葉。
〝逃げ水の向こうは天国だから。もし向こうに行ってしまったら、戻れなくなるからね〟
頭の中で母の声がリフレインする。世間話のひとつにしか過ぎない、軽い声色。しかしその表情は真夏の濃い影に隠されてよく思い出せない。
ペットボトルの蓋を開けると、プシ、という気の抜けた音がして、それがまた私を現実に引き戻した。
「……お父さん、逃げ水って何だっけ?」
「お前、三十路にもなってそんなことも知らないのか。ほら、アスファルトの坂の上。鏡みたいに地面に空が映ってるだろ。こんな暑い日に現れる、蜃気楼の一種だよ」
ああ、あれか。名前があるなんて知らなかった。
小さい頃、魔法の水たまりと呼んでいた。追いかけても決して辿り着けない。近付くと消えてしまう、遠く遠くの世界。
だから、逃げ水か。
「行ってもいい?」
そう言うと、父は少し驚いたように私の顔を見つめた。それでも、父はしばらく何か考えた後頷くと、その坂に向かって歩き出した。
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