奉公人

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奉公人

 青く澄み切った空をたゆたうは、太平の世を体現するかのような穏やかな雲。  されど世は、さざ波のごとく訪れる動乱の気配に、静かに、そして着実に揺れ動きはじめた。 “黒船”をはじめ、欧米列強が海を脅かし、列島の人々に恐れを、または怒りを生じさせる。  気がつけば幕府は乱れ、ついには武士が刀を手に取った。  時は幕末。  国を憂うものが動きだし、諸氏が己の志を叫ぶ。  抜き身の剣は乱れ、愛国を叫ぶ者を斬りつける。  いずれもが針路を失い、まるで手探りするかのように切っ先を振り回す。  しかし、未だ先は見えず、混迷は深まるばかり。  憂国の士が、さらなる国難を生む皮肉。  一方、それとはまるで次元の異なる争いが、江戸郊外の片隅で繰り広げられていた。 「お前のような奴は、とっとと出ていけい!」  さして広くもない店先に、男のやや甲高い声が響き渡る。  いやに大きな目をつり上げて、出っ張った頬から額の辺りを怒りで赤く染めている。  周囲にいる商人風の体を為した者たちは眉をひそめ、男の前にいる別の存在とを交互に見つめている。  対する男のほうに、動じた様子は微塵もなかった。 「だから、違うと言っている!」  鋭い一喝に、ぎょろ目の男はあからさまなまでに打たれ、のけぞり、周囲の面々も小刻みに後ずさった。  卑屈にも見える彼らの前に仁王立ちするは、引きしまった体をした顔立ちの整った青年であった。  その(つら)を今は烈火のごとく怒らせ、喰いしばった歯の間からは炎が噴き出さんばかりであった。  だが、ぎょろ目の男もよほど腹に据えかねているのだろう、すばやく体勢を立て直すと再び若い男に向き合った。 「何が違うというんだ! 奉公人風情がうちの大事な女中にいきなり手を出しやがって」  「私は、軽々しい気持ちで“彼女”に会ったのではない!」 「何度も何度もしておいて寝ぼけたことをぬかすな! お前は、己の為したことすら憶えとらんのか!」  ぎょろ目の男は、相手の異常なまでの眼力に内心気圧されながらも、罵声を止めはしなかった。  この者は、店の番頭であった。商人としては有能であったが、いったん火がつくと何もかも止まらなくなる。今がまさにそうであった。  よりにもよって、店主に留守を任されたこのとき、自身が目をかけていた若い女中と、前々からいけ好かないと感じていたこの男とが姦通した。
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