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月光にも似たほの白い水槽の照明を透かして、ぼんやりとにじむ向かいの診察室に視線を移しながら、奎緒はふとそんなことを思う。
消毒液のにおいが染みこんだ病院の壁のうえ、そこだけ切り取られたように浮かび上がる巨大な水槽は、二年前、初期研修医過程を終了した和彦が外科医として就任する際、当時院長であった奎緒の父が取り付けさせたものだ。
──今日からお世話になります。
十年前のあの日、そう言って頭を下げた和彦の胸に抱えられていた小さな水槽。
そのなかで窮屈そうにしていた魚たちは今、新しく与えられたこの広い棲み処を楽しむようにゆらゆらと泳ぎ回っていた。
「──……奎緒?」
ふいに下から自分を呼ぶ掠れた声に、奎緒は一瞬びくりと身をすくませる。
つい今しがたまで閉じられていた瞼がゆっくりと開き、そこから覗いた黒瞳が、やがて奎緒の姿を認めると小さく緩んだ。
「……寝てたのか、俺」
吐息のように独り言ちて、和彦が額に落ちた前髪を長い指でかき上げる。けれど、見慣れたはずのそんな何気ない仕草が、ひとつひとつ鋭い痛みになって奎緒を動けなくさせた。
──気付きたくなんか、なかった。
何も知らないままでいたかった。
「何か、同じ家に住んでるのにすごく久しぶりな気がするな。──奎緒と、こうやって向かい合うの」
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