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けれど瞬間、彼の声に重なるようにして耳に返ったもうひとつの声に、奎緒はなすすべもなくその場に立ちすくんだ。
──奎緒、いいね。今から私が言うことをよく聞きなさい。
その懐かしい響きは、父親のもの。
奎緒がまだ、それを彼個人の声としてしか認識していなかったころ。
個人病院の院長であると同時に、外科医でもあった父の身体を病魔がむしばんでいることに気付いたのは、それがすでに手の施しようがないほどにまで進行したあとだった。
あの日、病室にひとり息子である奎緒を呼び寄せたとき、彼のなかには、静かに、しかし確実に忍び寄る死の気配があったのだろう。医者の宿命だよ、とその間際、諦めたようにつぶやいた父の声を、奎緒は今でもよく覚えている。
──本当は、もっと早く話すべきだったのかも知れない。でも、どうしても今まで言えなかった。……和彦くんのことだよ。
そうして、口許の寂しげな微笑みを自嘲に変えて彼が語り出した内容は、奎緒が予想さえしていなかった、あまりにも残酷な事実を告げるものだった。
急に何も聞き取れなくなった耳のなかで、たった今、父が口にしたただひとつの単語だけが、わんわんとけたたましく響く。その音がだんだん大きくなって全身を支配した瞬間、真っ暗な闇に頭からすっぽりと呑み込まれた。
──覚えているのは、そこまでだった。
ふたたび目覚めたとき、父はすでにこの世にはなく、後日、三日間昏睡状態に陥っていた奎緒の代わりに喪主を務めた和彦から、あれからわずか数時間後、父が帰らぬひとになったことを教えられた。
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