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そんななか、ふと独白めかして和彦の唇がそう動くのを、奎緒はどこか遠くから見ているような感覚におそわれる。水中越しの会話にも似た、ひどくあいまいな印象。
「……なに、を?」
だから、その言葉の真に意味するところも分からないままぼんやりと問い返すと、乱れた前髪の下から覗いた和彦の黒瞳がまっすぐに奎緒を捉えて、そして言った。
「──奎緒が弟だって、最初から知ってた」
──和彦くんは、彼は、おまえの本当の兄さんなんだよ。
それは、あの日告げられた真実。
今から約三十年前、まだ父が医学生だったころ、彼には親しくしていた女性がいたのだという。結局、それから間もなく彼らのあいだには破局が訪れたが、そのときすでに妊娠していた彼女が、のちに私生児として産み落とした子どもこそが誰あろう──和彦だったのだ。
「……ど、して……」
信じられない思いで呆然とつぶやく奎緒に、目の前で和彦の瞼が静かにふせられる。
「……十年前、俺の母親がやはり死ぬときに教えてくれた。──昔、とても好きなひとがいて、けれど結局、そのひととは結ばれなかったんだって。……でも、彼の子どもである俺がいてくれたから全然寂しくなかったのよって、本当に幸せそうに笑ってたよ、あのひと」
当時のことを思い出したのか、和彦の唇がわずかにふるえる。それに魅せられたかのように反射的に伸ばした指先に、やわらかな吐息が言葉とともに触れた。
「そのとき、俺と十歳年の離れた弟がいることも知らされた。生まれてすぐに母親を亡くして、その愛情を知らずに育った子ども。だから、俺が彼を守ってあげなさいって、あのひと言ったんだ。……俺になら、その子の寂しさを分かってあげられるでしょうって。それが、母の遺言だった」
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