過去編 第三章 「蝶の往方」

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 ぶるる、と身を竦ませて、ナシェルは昨夜の絶頂の記憶を脳裏から打ち払った。  姿見から目を剥がし、膝を抱えて丸くなった。  父はどうかしている。  床に落ちているそのピンを、もう見ることができなかった。  父は気を失ったナシェルの髪に、それを挿して出て行った。  まるで征服の印のようにだ。  狂気の所業のような気がしてくる。  むろん自分だって、さいごは浅ましく腰を揺らして何度も達して、悦んでいたのだけれど……。  父と、自分。  老いをしらぬ種族で、この世に互いしかおらぬ同族である以上、たぶん、ほぼ未来永劫、この関係を続けねばならない……。  ナシェルも本当は父を好きだ。愛してはいる。けれど自分の中にあるその愛とは、一体どんな種類の愛だろう?  父を“父”として、ただ尊敬し崇拝したいのではないのか?  あまりに稚い頃から烙印を焼き付けられてきたために、“親子愛”の正常な形というものを、ナシェルは知らずにきた。  けれどもう今は、何も知らぬ幼子ではない。  親友ヴァニオンが彼の父親との間に築いている、無遠慮で限りなく対等で、それでいて真っ当といえる親子関係を、羨ましくさえ思うのだ。  父は自分をどうしたいのだろう。自分のこの体を、よく響く楽器のように造り変えてしまって、このあと何を求めるのだろう?  時折、父のそうしたわけの分からない所業に無性に脅威を感じるのだ。なりふり構わず、父の腕から逃げ出したくなるといってもいい。  なにせ鏡の向こうの自分は、父をそのまま小さくしたような姿形をしていて。  紛れもなく父と全く同じ血が流れているのだと思うと、大きくなったら己も、あのような狂気に冒されるのではないかと―――。  そういう恐怖があるのだ。  もう充分、父の罠に、毎夜のようにとろかされてしまっている。嗜虐的な愛に応えてしまう自分がいる。  これ以上進んだら、自分も、きっと父のように、狂う―――。
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