過去編 第三章 「蝶の往方」

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 微睡(まどろみ)ながら、ナシェルは自分の背中に大きな瑠璃色の(はね)が生えていると錯覚していた。  ……どうやら、夢を見ているらしい。  彼は翅のきれいな蝶になって、花を求めてあちらこちらを彷徨っている。  蝶は精霊たちのようにとても儚く、取るに足らず、それでいてとても自由な存在だ。  彼は体の軽さが嬉しくなり、籠から解き放たれたように、翅をはばたかせて奔放に常世の野を巡る。  ここはどこだろう、幻獣界あたりだろうか……?  幻獣界は冥界の中でも幻霧界同様、植物の多数生息する場所だ、むろん得体の知れぬ植物ばかりだが。  ともかく瑠璃色の蝶に変じたナシェルは喉の渇きを満たすため、艶やかなる花の、(うま)し蜜を求めていた。  やがて浮遊するナシェルの目の前に巨大な、紅色をした八重咲きの花が現れた。棘のある幹の先で、勝ち誇るように堂々と、一輪だけ咲いている。  それは運命的なまでに美しい花で、ナシェルは是が非でもその蜜を吸いたいと渇望するのだが……頭の片隅では、その紅色の花の危険性に感づいている。  その花は虫を食らう花で、雄蕊(おしべ)には強力な麻痺作用があり、触れればたちまち花びらの獄に囚われて、邪悪な毒に翅を蕩かされてしまうのだ。  それを知っているのに、ナシェルはその花に惹かれてふらふらと近づいてゆく自分を制することができない。  紅の花の発する強力な芳香が、彼から自制心を奪っていた。  紅の花は大輪の花びらを拡げてナシェルを導く。まるで絡め取るような仕草で、妖艶にナシェルを招く。
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