過去編 第三章 「蝶の往方」

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 サアオイデ、ソナタニタップリト甘イモノヲアゲヨウ……  ナシェルは嬉々として花びらの上に降り立ち、うっとりと悩ましげな溜息をつきながら紅の花の逞しい雄蕊(おしべ)を口に含み、甘い汁を口いっぱいにほおばる―――。  花のほうは、可憐な蝶を補足した歓喜に奮え、大きな花びらでナシェルを包みこもうとする。甘い花蜜は神経毒。蝶をあやめ、その美しさを糧として、花はより一層咲き誇るのだ。  己の失敗に気づいて逃れようとしても、もう遅い。  花びらは、ナシェルをつつんでぎゅっとつぼみのように窄まる。閉じ込められたナシェルは、足もとにじわじわと翅を溶かす溶液が満ちてくるのを感じる。  熱い、溶かされる! 溶かされて、花の一部になってしまう――  ナシェルは花びらの檻から出ようともがき、助けてと声を張り上げる。  ……ずいぶん長い時間囚われていたような気がする。もうだめだと諦め、気が遠くなりかけたとき、急に視界が開け、ナシェルは外気に晒された。  何者かが大きな手でつぼみをこじ開け、ナシェルを救い出してくれたのだ。  けれど叫び疲れたナシェルは、それが誰なのかも判らぬままぐったりと倒れ伏した。  蝶を救ったその誰かは、ナシェルの瑠璃色の翅をこわれないようにそっとつまんで、あたたかな布の上に移動させてしてくれた。 ――翅が壊れていないなら、また飛べるさ。元気出せよ……  優しい声が上から降り注ぐ。  頬に心地よい肌触りの布だった。  うっすらとした意識のなかで、頬に触れるその布の、目にも鮮やかな緋色だけが強く印象に残った――。  この布、どこかで見たことがあるような気がする。そう、とても身近で……。 「……あまり身が入られぬようですな、殿下?」  ナシェルの居眠りをたしなめるヴェルキウス公爵の声はいささか尖っていた。  はっと目を覚ましたナシェルは、とっさに背筋を伸ばす。  びくっとした瞬間に、手にしていた羽ペンをつよく紙に押しつけてしまい、黒インクがかきかけの文字の上にじわりと染みを広げた。 「あっ……いけない、」  インクを拭くものを探すナシェルの目前に、ジェニウスがついと自分の手巾を差し出す。
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