過去編 第三章 「蝶の往方」

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「ハンカチを汚しても構いません、殿下。それより、いま拙官がお教え申し上げている軍学はそれほど興趣をそそられない内容ですかな?  用兵と築城の基本、我が冥界軍の兵站、輜重、部隊編成の基本方針……どれも、じきに暗黒界の領主として冥界軍と黒翼騎士団のおよそ半数に迫る勢力をお手にされる貴方様が、身につけておくに足る内容であると拙官は愚考(つかまつ)るのですが?  それともいざというときは『神司』を使うから魔族の軍勢などに頼りはせぬと、そういうお考えからですかな」  ――冥界軍の長が、領主としての自立を控えている王子に、じきじきに軍事学の教鞭を垂れているのである。束の間とはいえたしかに居眠りをしている場合ではない。  ナシェルは、ジェニウスの手巾でインクをおさえながら上目づかいをしてみせ、殊勝らしく謝ってみせた。 「済まない、公爵。……少し寝不足なんだ」  通用しそうにもない云い訳だったが、ナシェルの充血した、蠱惑的な群青色の瞳を見下ろしたジェニウスは、しばし黙り、あきらめたように咳払いする。 「……まあ、あまり詰め込みすぎるのもよくないでしょうからな。今日のところはこの辺にしておきましょう。それにしても殿下、あまり睡眠を削って遊び歩くものではございませんぞ、近ごろ城下の歓楽街でたびたびお姿をお見かけすると、騎士団員たちが申しておりました。…賭博場に出入りしておられるのか?」   どうやらジェニウスは、寝不足の原因を夜遊びと勘違いしているようだ。  ナシェルは否定しないでおく。 「賭博場へは私ひとりで行くわけじゃない。あなたの息子が(ハマ)ってるから、しぶしぶ付き合ってるだけ」  公爵は言葉を詰まらせ、口の中で何やら我が子に対して悪態をつく。本を片づけ始めた彼に、ナシェルは少し声色を落として云い訳を続けた。 「それに遊び歩けるのも今のうちだけだから……。暗黒界にはまだ建設途中のエレボス城があるだけで、歓楽街どころか魔族の集落さえないんだもの。あの土地を拝領してしまったあとは、嫌でも品行方正にならざるを得ないさ。だから……、」 「そう願いたいものですな。では今日の続きはまた後日ということで」
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