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ナシェルは動揺を隠して頷く。
「……そうか。それもありかもしれないな。お前がそうしたいと思ってるなら、私のことなど気にせずにそうすればいい」
嘘だ。それは嘘だ。私の嘘に気づいてくれ。
もし許されるならばナシェルは立ち上がり、乳兄弟の横へ座って、私のそばを離れるなと、彼の指を握りしめたいのだ。
けれどヴァニオンの愛をしりぞけた自分に、どうしてそんな自儘な振舞いができるだろう?
結局ヴァニオンの言葉に対しては、想いと正反対のことを口走るしかない。
それにしてもああ、なんと独り善がりな己の性質!
身も心も冥王の鞭に酔い痴れているのに、一度手に入れたこの男の心が、なにか他の生き甲斐を見つけることを良しとはしていないのだ。
私を追って欲しい。
けれど絶対に、それを口に出すことはできない。
沈黙はしばらく続いた。
やがて乳兄弟はむくりと上体を起こし、緋色のマントに草をたくさんひっつけたままナシェルの方を振り返って、黒曜の瞳でナシェルを真っ向から貫いた。
「……お前、俺が本当にそうしたがっていると思うのか?」
魔族の貴公子の、曇りのない眼差しに射竦められて、ナシェルは動揺を押し殺すため目を逸らすしかない。
「……私とつるんでいても、お前が辛いだけだろう。ならば一度離れてみるのも、いいかもしれない」
「……ああ、そうかよ」
ヴァニオンはぶっきらぼうに応じ、また正面を向いてナシェルに緋色の背を見せた。
――違う、逆なんだ。
どこへも行くな、ヴァニオン。
ああ早く、早く前言を撤回して、そんないいつけは無視して私のそばにいろと云わなければ、この男は本当に私の目の届かない所へ行ってしまうぞ……。
けれど、お前の愛に応えられない私にお前の生き方を縛る資格はない……。
不意にヴァニオンは前を向いたまま肩を震わせた。何かと思ったら、吹き出しているようだ。
「嘘をつくなよナシェル。目を見たら判るさ」
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