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返答を待つヴァニオンの眼差しは意外なほど穏やかだった。自分がどんな重大事を唆かしているのか、分かっているのだろうか。
地上界へ出る。
それはこの常闇の世界との訣別を意味し、同時に彼らを縛る柵との訣別を意味している。
ナシェルにとっては抗えぬ定めへの、致命的な反逆をも意味するのだ。
ナシェルは我知らず半歩下がる。ヴァニオンの背後に、不意に紅の眼をした長身の影がちらついたような気がしたのだ。
影はナシェルがどうするのかを、試すように目を細めて窺っている。斜に構え、優美な二の腕をそっと肘のあたりで組み、自分と同じ顔に冷ややかな微笑を浮かべて…。
ナシェルは喘ぐように頭を振った。父だ。
父の幻が自分を見つめている。
(落ち着け、これは、錯覚だ)
大きく息を吸って吐き出すと、父の影は小さく首を振ってナシェルから目を逸らし、背後の闇と同化して消えた。
ナシェルはどこにいても父の気配を感じる。闇神の御子としてこの世に生きる限り、永久にその甘美な闇の呪縛から解き放たれることはない。或いはそれは、父の敷いた隘路の上に立つ自分の、すでに正常ならざる領域に達した精神からなる妄想なのかも知れぬが。
……だとしても、脳裏の造り出す父の幻像は常にああして紅の双眸で自分を、闇の彼方から見つめているのだ。ナシェルはたびたび顕れるその幻像の真偽を、確かめるすべを持たない。もしかしたら本物の父かもしれないと思うと、幻影に対してさえただ怯え畏まるしかない。
父の姿が泡影であったことを確かめたナシェルは、やっと金縛りから解かれたように全身を弛緩させた。
もつれがちな言葉を一語一語区切って、声にする。
「地上界へ……。それは、この世界を、捨てると、いうことか……?」
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