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ヴァニオンは笑った。否、笑おうとして失敗したといった方が正しいのか。痛々しい微笑を浮かべ、ナシェルに片方の手を……無骨な掌を、差し伸べた。
「心配すんな。駆け落ちなんて、そんな野暮ったいこと云うつもりはない。ただの冒険心さ」
しかし躊躇いがちな言葉のなかに、いくばくかの願望が込められているのをナシェルは悟る。
駆け落ちなんて。
ヴァニオンはそれをきっぱりと否定してみせることで、高まりそうになる己の心を辛うじて鎮めているようだった。
そんな、野暮ったいことを云うつもりはない。
それが嘘である証拠に、深遠な色をした彼の瞳がつかの間、大きく揺らいだ。
このとき二人の会話の中には数多の建前と、微々たる本音が共存していた。
子供のころならば不必要であったそうした腹の探り合いを、一体いつからしなくてはならなくなったのだろう?
ヴァニオンは『今にもお前を連れて逃げ出したい』のだと瞳の奥に本心めいた苦渋を滲ませながら、「これは駆け落ちなんかじゃない、ただのお遊びさ」と笑い飛ばさざるを得ず、ナシェルは内心で彼に(都合のよい)不変の愛と忠誠を求めながらも、『私がお前を選ぶことはありえない、だから私を好いているなら諦めろ』と、表向きは彼を説き伏せざるを得ないのだ。
「……少しでもお前の気晴らしになればと思って。俺は何度かここを抜けて地上界に出たことがある。だから色々楽しい所へ案内してやるよ。日ごろの憂さを晴らせるような場所に。
……嫌ならいいんだ。お前がここを、離れたくないというのなら。無謀な家出は、しないに限る」
最後の一言でやはりヴァニオンは眼を逸らし、あらぬ方を見遣った。
――嘘のつけぬ男だ。お前は。
今にも私の手を引いて、馬に飛び乗り河の向こうへと駈け出したいのだろうに。
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