過去編 第三章 「蝶の往方」

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 ナシェルは熱っぽいような、それでいて不意に吹き出してしまいそうな不思議な気分で、それらを聞いていた。照れくささと嬉しさと、どことない哀しさとが心の中で綯い交ぜになっていた。  ヴァニオンの、秘められた熱い本心を胸の奥に感じ取るや否や、無性にこの男が欲しくなった。  居てもたってもいられなくなり、引っこめかけたヴァニオンの手を、慌てて掴んでいた。 「行く。……連れて行ってくれ」  自分は浅はかだっただろうか? 衝動的すぎただろうか?  一度身を引いたこの男にこれだけ心配をさせただけでは飽き足らず、なおも差し伸べられた手にまで縋ってしまうのは、甘えすぎだろうか? 最後まで意地を貫き通して「馬鹿なことは止しておこう」と一笑に付すべきだっただろうか?  しかしさまざまな自責と後悔の念を差し置いても、ナシェルはこのとき、ヴァニオンの不器用な気遣いに応えてみたかったのだ。  きっと、ヴァニオンが「これは駆け落ちだ」と宣言していたなら、ナシェルはその手を掴むことなくその先へ踏み出すこともなかっただろう。畏れのあまり、冷静に立ちもどっていただろう。  ヴァニオンはそれをきっぱりと否定することで、ナシェルを「王か、俺か」という絶望的な二者択一から救った。  しかし同時に、そのような気遣いがナシェルを甘えさせ、最後の最後で冷静な判断力を失わせたのだ。  否……なんのかのと理由をつけるのは止そう。畢竟、ナシェルは父の狂おしい愛に嫌気が差し、ヴァニオンに束の間の救いを求めていた。ヴァニオンは不器用なりにナシェルの心理を察して、彼を王から少しでも遠ざけようと彼を唆した。  駆け落ちではないと彼が云ったのはあるいは、のちのちの保身のためかもしれない。  だがそれはナシェルにとっては大したことではない。重要なのはナシェルが本心ではまだヴァニオンに依存しており、ヴァニオンの気持ちを悟って心底ほっとし、彼の優しさに全面的に縋ってしまったという点だ。    責められるべきはきっと唆したヴァニオンではなく、その言葉を彼に言わしめた、ナシェルの方なのだろう。
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