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冥王の支配の及ぶ範囲を越えたわけだが、意外にもナシェルの体にはなんの抗力も働くことはなかった。河を越える前にはあれだけ感じていた狂おしい王の視線は、河を越えるや否やいずこかへ去り、ナシェルは聊か呆気ないほどにたやすく父の呪縛から解き放たれていた。
…当たり前だ、呪縛そのものはとても感覚的かつ精神的なもので、実際に何らかの物理的呪いがナシェルを取り巻いているわけではないのだから。
おそらく父はナシェルが地上へ出たことを悟っているだろう。
父の怒りは恐ろしいが、今は戻ったあとのことを考えるよりも、何処へ逃げるかを考えるほうが先だ。
日の暮れた草原を、月光の照らす荒野を、二騎は駆け抜けた。愛馬は黒々とした大翼をたたみ、只の黒馬に化けさせている。
すぐにも追手がかかるだろうという予想に反して、彼らを追跡する者の気配はなかった。
戻っておいでという父の哀しげな声だけが、ナシェルの耳元に時折聞こえた。ナシェルは幻聴に耳を貸すまいとした。
何処をどう走ったのだろうか。
そのうちに馬のほうが先に、慣れない地上界の騎行に音を上げ始めたので、二人は荒野の果ての、泉を囲む小さな緑地に寝むことにした。
水面が月の光を映して銀色に耀く。それ以外に何らの灯りもない、あるのは外套がわりに寒さをしのぐマントのみという、心許ない野宿であった。
あまり腹をすかせたことのないナシェルにとっては、腹の虫が鳴くというのは珍しい経験だ。だが狩りの獲物を探すよりは人里を探したほうが早そうだったので、彼らはその日はとりあえず寝むこととし各々のマントにくるまった。
ナシェルは愛馬・幻嶺の大きな背を枕に草の上に寝転んだ。
ヴァニオンも炎醒の背を同様にして、少し離れた所に横になった。
ナシェルは目をつむり眠りに落ちようと試みたが、乳兄弟のその距離感が不意にたまらなくぎこちないものに思えてきて、意識しすぎるあまり却って目が冴えてしまった。
泉の上を吹く夜風を頬に浴びながら、ナシェルは試しに口に出してみた。
「なんか、寒い」
そして乳兄弟の反応を窺った。ヴァニオンが兎のように耳を立てたのが判って、ナシェルはたまらず甘えた声で繰り返す。
「……寒い」
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