過去編 第三章 「蝶の往方」

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 二人の青年を乗せた黒天馬らは、世界の隔たりを流れる三途の河(ステュクス)を飛び越して、愈々地上界に至った。  ナシェルにとっては冥界以外の初めての土地、初めての異界である。  人間界とはこれまで決して踏み入ることの許されぬ土地だと思っていた。“闇神の子にして人の死を束ねる神”である己が訳なく人間の領域を冒せば、あるいは何らかの地変が起こるかもしれぬと憚って、訪れること自体、今まで思いもよらぬことだった。  しかしその危惧に反して、この闇神の御子を迎え入れた地上界に天変地異など起こる気配はまったくなく、境目のあの大河とて、王子の軽率な越境を、細波とともに静かに見送っただけだ。  二界の狭間とは、これほど易々と行き来できるものであったのかと、河を跨ぎながら却って驚きすら覚えたものだ。  ただ父王の絡みつくような視線だけは、心の奥のどこかに常に感じていた。ナシェルはこの裏切りについて深くは考えまいとし、闇雲に馬の腹を蹴った。――そう、駆け落ちではない、単なる冒険なのだ、これは。  配下の精霊たちは途中までナシェルの供をしたが、三途の河の中ほどを過ぎるとその数は激減し、地上界の果てに抜けたのちはただ数匹がふところの中に潜り込むのみとなった。死の精霊は人間界にも生息するが、本来は人里を好む。人の魂を狩って冥界へいざなうのが彼らの本来の役目だからだ。人間の住む街へでも出れば、またたくさんの死の精にも出会うことになるだろう。  それにしても地上の夕べの情景というものは、なんと限りなく澄んでいることか。  地平線の端までもが美しい緋色に染まり、どこまでも平らかで安らかだ。  闇の世界に属する彼らは、昼間の皓皓とした太陽光を厭うが、夕暮れの赤々と燃える陽には不思議と嫌悪を感じない。光の力が薄まり、もうすぐ闇の時間が訪れるという前触れだからだろうか?  ナシェルは顔を覆ったフードの隙間から群青色の瞳を覗かせて、山々のあわいに沈みゆく黄金色の夕陽を眺めた。このとき初めて、父の世界を離れたという実感が湧いてきた。
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